ハンセン病市民学会

 2008年1月11日、星塚敬愛園で「胎児標本」とされた子どもたちの全国最後の「合同慰霊祭」がありました。
 ハンセン病市民学会は、「胎児標本問題を考える星塚の集い」実行委員会の構成団体となり、慰霊祭終了後の集いに参加しました。

報告「胎児標本問題を考える星塚の集い」(2008年1月11日)

ハンセン病「胎児標本」問題についての星塚声明 (PDF)

「胎児標本問題を考える星塚の集い」実行委員会

星塚公会堂 1月11日の「母の胸に抱かれることなく旅立った子どもたちのための慰霊祭」終了後、敬愛園交流会館にてNPO法人ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会(以下「NPO法人共に歩む会(鹿屋)」)、ハンセン病市民会議かごしま、全原協、ハンセン病市民学会の共催により「胎児標本問題について考える星塚の集い」を開催した。

 参加者一同の黙祷によってはじまり、主催者あいさつの後、全療協の宮里光雄会長と敬愛園自治会の岩川洋一郎会長よりメッセージが寄せられた。続いて、地元鹿児島での「NPO法人共に歩む会(鹿屋)」や「ハンセン病市民会議かごしま」の取り組み、ハンセン病市民学会および同宗教部会の取り組み報告がなされた。またこの日の星塚での合同慰霊祭は、全国の療養所における最後の慰霊祭であったことから、これまでの駿河療養所、邑久光明園、宮古南静園、沖縄愛楽園における慰霊祭の様子も報告された。

玉城しげさん、上野正子さん  そして基調提起があり、星塚敬愛園入所者の玉城しげさん、上野正子さんが、それぞれ自身の体験を話された。
 玉城さんは妊娠7ヶ月の時、夫が留守の間に医局に呼ばれ麻酔もせずに堕胎をされた経験を話してくださった。




 看護師が、「あなたに一目見せたかった。恨まないで欲しい」と言って見せた女の子は、ガーゼで口を押さえられバタバタしていた。子どもと対面させてくれた看護師のことは恨んでいない。恨んでいるのは水も飲ませず侮辱的な言葉を吐いた医師と師長である。飲ませる子どもがいないのに、母乳が出ることも苦しかった。堕胎後も休むことはできず、看護師の手伝いの仕事をしていた。
 そんなある日他の入所者に「標本」の存在を知らされ見に行くと、自分の名前の書かれた瓶があり子どもがその中に入れられていた。戦後、20年も経ってからのことである。医局の仕事をすることに耐えられなくなりその後は他の作業に変わった。
 1960年、園に訪ねてきた父親は「治療どころか悪くなっている。これが国のすることか」と言って怒った。父親は私を連れて帰りたいと言ったが帰ることはできなかった。その後、1967年になって沖縄に帰った。父は療養所の現状を知り、「国に対して裁判をする」と言ったが自分はあきらめるしかないと思っていた。後に提起された国賠訴訟で、原告となる決意をしたのはこの時の父の言葉があったからである。

 
  上野さんは、「私は国賠訴訟により人間回復をして今年で6歳の上野正子です」と名のって話し出された。


  夫と二人で社会復帰をすることを夢見て結婚したのに、結婚と引き換えに夫は断種をされた。「このまま死ぬのは悔しい」という夫の言葉に背中をおされ、国賠訴訟の原告として立ち上がった。「胎児標本」とされた子どもたちの親の悲しみと、私の悲しみは同じである。

 基調提起をふまえて持たれたパネルディスカッションでは、特に性と生殖の権利の侵害、パターナリズムの問題という観点から隔離政策の内実を掘り下げた。
 ディスカッションを通して、療養所における断種・堕胎がハンセン病隔離政策と優生政策の強い結びつきのもとでなされてきたということの解明を、大切な課題として共有した。そしてそのような隔離政策の中で生き抜いた人間の尊厳に触れるところから、国のハンセン病施策、将来構想に関する取り組みへとつなげていくことが確認された。
 将来構想の問題に関しては、フロアからの発言の中で、「自由権の侵害のみが人権侵害で社会権の侵害は人権侵害ではない」とする最近の国の主張の特徴が指摘された。このような、「差別する自由」すらも認めてしまいかねない国の論理を打ち破り、差別の連鎖を断つ取り組みをすすめることの重要性をうけとめた。」

パネルディスカッションの発言者と発言要旨

パネリスト
 竪山 勲(全原協副代表)
 松下徳二(NPO法人ハンセン病問題の全面解決を目指して共に歩む会)
 浜崎眞実(ハンセン病市民学会運営委員)
 冨田めぐみ(ヒューマンライツ福祉協会)
コーディネーター
 訓覇 浩(ハンセン病市民学会共同代表)

〔竪山〕 国賠の原告団事務所に「水子さまの部屋」と名前をつけた。
 慰霊祭は「胎児標本」として残された子どもたちのみの慰霊祭ではなく、すべての堕胎児の慰霊祭である。優生保護法は、産む権利を完全に奪った。そこには「国辱論」「民族浄化論」があった。園内結婚に際し、断種・堕胎を拒否できる道がなかったということは強制的にそれらがなされたということである。
 そもそも園内結婚を許したのは逃亡を防ぐためであり、国家による性の利用である。身元不明の堕胎児が存在したのも、人のいのちを人のいのちと見ないような、扱いをしてきたためである。国の責任が極めて不明確である。厚生労働省が発表した堕胎児数も疑わしくきちんと確認させる必要がある。国は、医学科学の眼を持たなかった。あるのは社会防衛論のみである。

〔浜崎〕 駿河療養所の慰霊祭では堕胎児一体一体に名前をつけられた。名前もつけられることなく遺族もはっきりしないで一くくりにするような慰霊祭は、死者を粗末にしているのではないかと思う。
 公式には、「断種や堕胎はいけない」と主張しているのに、断種や堕胎を実施した医師や看護婦の中にはカトリックの信者も少なからずいた。断種や堕胎がなされてきた背景には、自分のことを自分で決めることを奪っていく入所者管理の体制と管理する側も権威によりかかり、自分で考えることを放棄するしくみがあったからだと思う。療養所にある貞明皇后の歌碑は、それを象徴している。元は職員に向けて詠まれたものを入所者に向けることで、入所者を黙らせる装置として機能してきたからだ。カトリック教会において「神父の言うことを聞いておけば間違いない」というような構造があるように、療養所でも入所者の当事者性を奪って、従順な姿勢を求めるようなかかわり方をしてきたのではないか。
 慰霊祭でなされた、「今日のわたしたちがあるのは(亡くなった)先輩たちの苦しみのおかげ」という発言は、靖国問題にも共通する危うさを持っている。今後の課題として、私たちは死者との向き合い方、すなわち死者をどのように思い起こすのかが問われている。「標本とされた堕胎児」たちへの記憶の持ち方を問い直し、自己責任と自己否定の循環の泥沼から脱する道を探りたい。

〔松下〕 断種・堕胎の問題は当事者の心に本当に深い傷を残しており、「この辛い体験を誰かに聞いて欲しかった」と言われる方もあれば「そんなことを聞くのなら絶交だ」と言われる方もある。断種をされた人の体験を聞くと、おおよそ入所者を人間扱いしていない屈辱的な断種の仕方や医師や看護婦の態度が伺える。隔離によって人間の性までもが国から支配を受けていたということを私たちは問わねばならない。

〔冨田〕 「もう切ったか?」「もう堕ろしたか?」という会話が、療養所の中では日常的にあったと聞いている。また医師は妊娠した女性に対して「こんなことをして恥ずかしくないのか」と言って辱めた。
 このような性と生殖の権利への否定は、障害者問題とも通底している。最近、脳性まひの自分の娘が「子どもを生みたい」と話しているが、脳性まひの人に対して施設への入所条件としてコバルト照射を受けさせ妊娠・出産ができないようにしてきたという現実がある。現在、子どもを産もうとする人に対してなされている出生前診断も障害者を排除する思想に基づくものである。
 このような視点からも、ハンセン病隔離政策の歴史と現実を知ることは不可欠であるにもかかわらず、ハンセン病問題をまったく知らずに福祉に従事する人があまりに多いことに疑問を感じている。

 集会の最後に、参加者一同で「ハンセン病「胎児標本」問題についての星塚声明」を採択した。

  

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