宗教部会

『青木恵哉とその時代』 ハンセン病市民学会運営委員・琉球大学助教授 森川恭剛

〔報告要旨〕 2005 年6月20日 第一回交流学習会(沖縄エリア)にて

1. 熊本地裁判決は1975年頃から療養所内の生活条件等が一定程度改善されたことを理由として、隔離政策による被害が軽減していたと認識しています。これをある意味で追認したのが検証会議報告書における、らい予防法の改廃が「遅れた」理由に関する「強制隔離・処遇改善表裏一体論」という考え方です。全患協運動は人権論を棚上げにして処遇改善を要求したと指摘されています。しかし、ハンセン病隔離政策が療養所からの退所に関して消極的であったことは間違いなく、法廃止はむしろ「遅らされた」のだと思います。退所規定を持たないらい予防法は入所者の社会復帰を阻害して、ハンセン病差別を維持する法律でした。したがって療養所入所者の平均年齢が70歳に達して、これを廃止しても退所者が極めて少ないという時期になり、同法はようやく廃止されたのだと考えます。


 2. 隔離政策が法廃止を遅らせたことによる被害を指摘するのは、青木恵哉(1893〜1969)という人物の存在があるからです。彼は1958年に『選ばれた島』を書きました。この書物は他ならぬ病者自身により戦前の日本の隔離政策が描かれた大変貴重な記録です。1972年の再版に際して解題を付した渡辺信夫によれば、青木が望んだのはキリスト教的雰囲気の療養所であったが、設置されたのは臨時国立癩療養所であり、そこに彼は矛盾を感じていたのではないかということです。この渡辺の指摘は、入所者らの手により戦後再建された療養所であるという現実の前で当時顧みられませんでしたが、この第2の誕生後の愛楽園を青木は何を考えて生きていたか、という問いかけを可能にします。

 この点について青木は1951年の「光流」創刊号で、これまでの救癩は隔離しか方法がなかったが、有効な治療薬の出現によって、私達は人類史の一翼を担うものとして、新しいスタートを切るべきだ、と述べています。また、彼は1969年に亡くなりますが、当時の愛楽園長湊治郎に「群れを頼む」と言い残しています。湊は那覇で外来診療所を開いた医師であり、入所者に退所を促していた人物です。したがってこの言葉の意味は、社会の片隅にも退所する場所がないために、愛楽園に残っている入所者のことを頼むということです。つまり青木にとって、入所者が社会復帰できない差別の状況があるということが、何より切実な問題であったと思われます。

 したがって、第1に、戦後沖縄においても本土と同様に隔離政策による社会復帰の阻害という被害が生じていたということができます。第2に、ハンセン病患者が迫害されることをなくしたいという問題意識において青木は生涯一貫していたといえます。それゆえ戦前の青木が1人の病者として仲間を救おうとしたのであれば、彼は愛楽園を築いたことによって、たしかにとてつもなく大きな矛盾を抱えたに違いありません。この矛盾が歴史的に説明されねばなりませんし、また今からでも解消されねばなりません。
 

3. 沖縄県では1909年の内務省の療養所建設案が失敗し、翌年九州療養所に参加することにより隔離政策がはじまります。この点について、沖縄には宗教的患者救済施設が存在しなかったために、沖縄における隔離政策は伝染予防を目的として療養所を設置するにあたり、患者救済という名目を、先行する宗教的患者救済活動から借りることができなかったからであると説明できるように思われます。1916年に光田健輔が西表島を視察して巨大癩村を計画していますが、そのときもハンセン病に対する強い恐怖と差別を根底において、療養所と患者救済ということがまだ結びつきません。
 
 しかし、九州療養所への患者「護送」は困難が伴い、1927年に内務省と沖縄県は協議して沖縄保養院案を打ち出し、とりあえず宮古と名護に療養所が設置されることになります。そして宮古では九州療養所分離から4年目の1931年に全国で6つ目の公立療養所宮古保養院が開院しています。しかし沖縄では設置計画案が次々に失敗します。青木恵哉が来沖したのはそのような時期で、安住の地を得ようとした彼の行動により、ようやく1938年に羽地村屋我地島に国頭愛楽園が設置されました。この間にどのような状勢の変化があり、療養所設置運動が療養所設置反対運動に勝りえたのでしょうか。


 4. ところで1930年代というのは隔離政策が強化される時代です。当時の隔離政策の課題は家族内伝染の防止でした。そのために「救癩」のイデオロギー、つまり自宅から患者を引き離すことが患者の救済、さらに家族の救済でもあるとするイデオロギーが登場しました。光田が自由療養区の構想を隔離政策の補助形態と位置づけて、私立療養所の宗教的患者救済の方法を隔離政策の対象拡大のために取り入れようとした、その論理の中に、隔離政策が大きく成長しえた理由があるように思われます。
 
 では、沖縄ではどうであったかですが、1935年5月に沖縄MTLが結成され、同年11月に沖縄から129名の患者が新設の星塚敬愛園に大収容されます。その標語は奴隷以下の沖縄の癩者を救えということでした。この救癩運動の支援をうけて青木らは屋我地島大堂原に移住することができ、そして三井報恩会の財政的援助により1937年に同地に沖縄MTL相談所、1938年にこれを前身として国頭愛楽園が設置されました。つまり救癩運動が沖縄において隔離政策の拠点となる療養所を可能にして、1943年に定員450人の愛楽園の入所者は500人を超えました。
 

5. しかし国頭愛楽園の開園時に多数の患者が強制収容され、園内は感謝組と不平組に別れて、感謝組の青木は「逆境の中にある」と書きました。このことが愛楽園誕生の物語である『選ばれた島』から省かれています。しかし沖縄における救癩運動とは無癩運動に他ならず、「沖縄救癩の殿堂」である愛楽園が無癩運動のシンボルであったことは否定できない事実です。1963年に菊池恵楓園でうけたインタビューの中で青木は、「救癩といっても我々の願っていることは行われない」と述べています。これが青木の抱え込んだ矛盾です。したがって彼が『選ばれた島』で書きたかったのは、「救癩」を賛美することではなかったと思いますが、その頃の沖縄は戦前と同様に厳しい隔離政策の形成過程にあり、同書は「救癩」のイデオロギーの書として読まれたように思われます。


 6. 他方、本土では、1950年代半ばに森幹男の濫救惰眠論が発表され、そして1960年代に神谷美恵子の生きがい論がでました。両者に共通している認識は、戦前の隔離政策は入所者や職員らにそれなりの過酷な経験を強いたが、プロミン以後の入所者は「施設病」にかかっているということです。このうち濫救惰眠論は入所者に多くの議論を呼び起こし、そのような中で島比呂志の注目すべきコロニー論が展開されました。彼によれば、療養所という特殊な社会は、普遍化の方向に開かれて行かねばならないが、その普遍化へのプロセスとして特殊なコロニーを構想することが必要でした。なぜなら入所者が力を合わせて、差別に対して闘うための拠点が必要だからでしょう。青木の闘いの性格もそういうものでした。

 しかし、生きがい論は、一方で全患協運動の生活条件等の改善要求を牽制しながら、他方で入所者の中には心の世界の組み換えをしてはるかに豊かな入所生活を送っている人がいると論じました。これが戦後再定位された「救癩」のイデオロギー、つまり最も過酷な境遇から転じて限られた施設内で再生しうる、したがって退所する必要がないというイデオロギー、社会復帰阻害のイデオロギーです。
 

7. 『選ばれた島』も現在はこのイデオロギーにおいて読まれているように思われます。愛楽園とは、厳しい迫害に耐えてその中で豊かな人間性を育んだ人達が暮らしているところであると。こうして現在のハンセン病差別のことがまったく抜け落ちてしまいます。それは青木が望んだ『選ばれた島』の読み方ではないでしょう。青木にとって愛楽園は社会に対する「患者らの砦」であり、戦後治療薬が開発されると、さらにその意味を強くして差別に立ち向かって社会復帰するための砦、簡単に言えば差別と闘うための砦であったと思われます。したがって、らい予防法の強制隔離規定と一体の関係にあるものがあるとすれば、それは社会復帰阻害のイデオロギーとしての「救癩」のイデオロギーです。青木恵哉や全患協運動が差別と闘ってきたのだという基本的で単純な事実は動かすことができないと思います。

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