ソロクト・楽生院訴訟

多くの人が裁判支援を  福祉運動・みどりの風 原田 恵子

 2005年6月29日、私たち一行30人は、そぼ降る雨の釜山港に降り立った。2泊3日の行程で韓国のハンセン病療養所小鹿島更生園(ソロクト)と定着村でのスタディツアーの始まりである。
 部落解放同盟大阪府連合会国際部と福祉運動・みどりの風共催で、韓国のハンセン病問題を学び、裁判の支援を多くの人に呼びかける機会をと、市民参加型の研修を企画し、取り組んだ。邑久光明園の入所者もふたり参加した。

 かつて日本の植民地だった韓国や台湾等にも日本の政府はハンセン病療養所を設置して、日本と同様、あるいは日本以上の凄惨な隔離収容政策を行ってきた歴史と現状がありながら、忘れられている事実を一人ひとりの眼で見ることから始めた。
 マスコミ等でも報道されているとおり、日本の植民地時代の韓国、台湾のハンセン病療養所に強制隔離されていた人びとが、熊本地裁判決後制定された「ハンセン病補償法」による請求を起こした裁判は、大詰めを迎えているなか、かつてのような世論の盛り上がりが見られない。裁判のたびに高齢で障害のある身体をおして日本に来られているソロクト、楽生院入所者の訴えを無視してはならないと思う。
 
「『ソロクトに行けば治るから行きなさい』。おそろしくてさからえなかったし、病気が治るということにすがる思いで、漁船に積み込まれて4日間かけて収容された。しかし、翌日から日本人の看護士の命令で毎日道を作る道路作業、朝4時ごろから夜中までモッコで石運び、少しでも休むと棒で殴られたり蹴られたり、指示があるまで休めなかった……。内鮮一体が叫ばれ、私たちは日本人民として扱われ日本のために働かされた。それなのに今になって、日本の療養所でないというのは納得いかない」と。
 
 1日目は、麗水(ヨス)市にある定着村を訪問、自治会総務課長さんの案内で居住棟や村内の資料館へ。やはり地元住民の偏見・差別があり、家族の子どもが地区の学校へ通えなかった苦労など説明してくれた。私たちがフィールドワークしているあいだ多くのボランティアの若者に出会った。
 2日目は、順天(スンチョン)からバスに揺られて4時間の小鹿島へ、対岸の鹿洞(ノクトン)からたった600メートルしか離れていない近くで遠い隔離の島。見覚えある小鹿島更生園入所者自治会長の金明鎬さんや総務課長さんの出迎えを受けた。

 「愛歓を克服し愛と希望を創る島」。小鹿島更生園のパンフレットにそう書かれている。夏は近くの家族が海水浴に来てにぎわうという。しかし、そんな「楽園」でないことはすぐ分かる。島のいたる所に日本の植民地下で過酷な生を強いられた「監禁室」「解剖台」「断種台」が保存されている。「未感染」の子どもが病気の親と一か月に一度面会していたという「愁嘆場」、民族と宗教を否定され、参拝を強要された神社、死者に対して韓国の風習である土葬でなく、日本式の火葬をして遺骨を納めている納骨堂など、日本の支配が徹底されていたことが一目瞭然だった。
 
 ここでも多くのボランティアの若者と出会った。「アンニョンハセヨ」「カムサハムニダ」のみだが、気持は通じるような気がした。常時島に出入りして、入所者の話し相手、居室の壁塗り、島内の掃除など、やっていることが半端でない。日本の療養所と大きく違う光景だった。島にはボランティアの宿泊施設が整い、食事は職員と同じく更生園の大食堂でとっている。私たちの昼食もそこだった。
 日本の療養所に比べて、職員、看護師の数は圧倒的に少ないのに人が行き交い、活気を感じた。総務課長さんの案内で島内をめぐるあいだ雷雨が止まらず、この島に連れてこられ、無念の思いで亡くなられた人びとの「恨。だれの嘆きか、涙雨」との思いが胸に迫った。
 今を生きる私たちの責務として韓国・ソロクト、台湾楽生院の人たちに謝罪と補償がなされるように裁判支援をしなくては、との思いを強くした。

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