ソロクト・楽生院訴訟
宮坂 道夫
学会発表や講演会などで、うまく答えられなかった質問を、何ヶ月も、時には何年間も考え続けることがある。そんな一つに、何年か前の国際学会で一人のインド人学者からぶつけられた質問がある。倫理の教育について発表をした私にこう尋ねてきた。
「倫理を教えるよりも、法の精神(the spirit of laws)を教える方がよいのではないか?」
その時の私には、到底答えられるものではなかった。"the spirit of laws"とは、モンテスキューの本を指しているのか、あるいはもっと一般的なことを言おうとしているのか。英語力も貧しく、国際学会での発表にも慣れていなかった私は、質問の意図を聞き返すこともできなかった。医療という限定された問題に限っていえば、法律の位置づけについて、ごくわずかのことは書いたりしてきた。しかし、今でも「法の精神」とは何か、「倫理」との関係はどんなものか、逡巡しながら考えさせられている。
韓国と台湾のハンセン病療養所の人たちへの賠償についての判決を報道で聞いて、この「法の精神」という難問が、ひょっとすると案外簡単なものなのかもしれない、という気がした。同じ東京地方裁判所の、別々の法廷で、別々の裁判官が、同じ法律の解釈をめぐってまったく異なった見解を示した。その法律は、国の責任を認めた熊本地裁判決を受けて、ハンセン病の患者・患者だった人たちに国家賠償などの補償を行うための「ハンセン病補償法」だ。ただ、賠償を支払う対象の「範囲」については法律に詳しく明記せず、結果として行政官に任せることになった。行政官は、かつて日本人が作り、日本人の手で運営していた旧植民地のハンセン病療養所の入所者たちを、法律に書かれていない対象だとして除外した。
東京地裁で最初に判決を言い渡した裁判官は、この官僚と同じ発想で原告の訴えを退けた。行政官は法律に明記されていない(国会での質疑でも触れられなかった)人たちを除外し、裁判官はそれを妥当と見なした。
もう一つの法廷の裁判官は、この法律の「趣旨」とは何だったか、という議論を判決の骨格に据えて、原告の訴えを認めた。この裁判官のいう「趣旨」とは「償い」である。立法府と行政府の過失を償うために、生涯を犠牲にした彼らへの救済としてはあまりに少ない補償金を与えるというのが、この法律「ハンセン病補償法」の趣旨だった。この法律の「趣旨」は「償い」であって「補償金の支給」ではない。「補償金の支給」は手段であって目的ではない。
「法の精神」とは、この「趣旨」のことなのかもしれない。法律が現実の社会にあって「生きる」のは、この精神を、様々な段階で関わる人が理解して仕事をすればこそだ。法律の作り手は、「償い」という「精神」を法律という形にしたはずだ。法律にその細かな定めがない部分は、行政官がそれを補うべきだろう。法律の精神を生かすための具体的な手段を講じるのが彼らの仕事であって、細部の不出来を理由に法律の精神を殺してしまうべきではない。
裁判官はどうか。裁判官は、例えば法律の不備を指摘しながらも、法の精神を生かすための判決を書く権限を持っているのではなかろうか。裁判官が立法者の不手際を指摘するだけで、法律の趣旨を生かす役割を自認しないのは、最下流に身を置く「法の番人」が、ただ上流へと被害者たちを遡らせることを意味しないだろうか。
この裁判を起こした人たちは、高齢で、身体に大きな障害を持っている。私は自分の目で見てきたが、日本までの空路や海路での移動どころか、国内の空港や港までの自動車での移動さえできない人たちがいた。日本の裁判官は、国境を越えて、かの地を訪れることはできないのだという。しかし、犠牲者の訴えを退けることで、この原告たちにどんな負担を強いることになるのか、考えるまでもなかったのだろうか。国側の弁護団は、旧植民地での被害実態について、この裁判では取り上げるべきでないという立場をとっていた。それで「償い」を趣旨とする法律についての裁判が成り立つと考えたのだろうか。
テレビ報道で見たある被告は、「控訴断念」と書かれた布を身にまとって法廷へやってきていた。勝訴しても、控訴されれば、少なからぬ被害者にとって「時間切れ」がやってくる――それを知っているからだ。
韓国の回復者たちは、控訴をして闘う構えを見せている。しかし、政府と国会が行動をして、ハンセン病補償法の範囲をこの人たちに広げるべきだ。控訴審に時間を費やしてしまうこと自体が、この法律の精神を死なせることになるのだから。
新潟大学医学部保健学科 宮坂道夫研究室HP