教育部会

教育部会設立総会等の報告

( ※一部、敬称略 )

★ 教育部会を設立しました

 ハンセン病市民学会・第2回交流集会2日目の5月14日。
 はじめに、午前中の分科会Bにおいて、準備会事務局の江連恭弘・佐久間建・福安和子・延和聰が、教育部会設立にむけての各人の考えや思いなどを報告しました。
 そして同日午後、教育部会設立総会が開催され、「これまでの経緯」(特には、2005年12月、長島愛生園にて開催した教育部会設立準備委員会の報告など)、「教育部会設立にあたっての趣旨」(活動方針 −1・部会の性格 2・活動について 3・運営について− )などを文書にて提案し、拍手をもって採択されました。

5月14日午前中 : 分科会Bでの報告内容

延 和聰

 前に座っている4人は準備委員会のメンバーですが、この4人で教育部会についてご報告いたします。
 
 現代の日本には、部落差別・障害者への差別・在日コリアンをはじめとする在日外国人への差別・女性差別、そしてハンセン病に対する差別などなど、人権の問題、差別の問題が存在しています。私は、それらの差別の解決は、教育が担う部分が多いと思っています。教育は、学校教育だけではなく、家庭教育や地域教育も含めて教育だと思っていますので、みなさまに広く教育部会への参加を呼びかけたと思っています。

 少しだけ、私自身のことについて話をさせていただきます。私は、広島県の盈進(えいしん)中学高等学校という私学の教員です。1997年、らい予防法廃止の次の年に、本校の卒業生が長島愛生園の職員にいるということもあって、当時、障害者問題研究部というクラブの顧問をしていました私が、生徒20名ばかり連れて泊まり込みで長島愛生園のフィールド・ワーク(合宿交流会)に行ったことがハンセン病問題に関わる出発点となりました。その中でひとりの生徒が親から参加してはならないと言われたことが、深く私の心の中に刻まれました。障害者問題研究部ですから、肢体不自由の生徒であるとか、家族に障害をもった方がいるという生徒、耳が聞こえない生徒などがいましたけれど、その中のひとりがお母さんから、参加してはならないと言われました。話を聞くと、お母さんの知り合いが医療従事者で、その方が、長島愛生園のようなところに行くと病気がうつるかもしれないと生徒のお母さんに伝えたということでした。

 このように、わたしたちの身近に差別が存在していたということを突きつけられましたので、私は、このハンセン病問題をしっかりと教育プログラムの中に位置づけていかねばならないと思い、これまで取り組んできたつもりです。

 療養所には何度足を運んでも特に、自治会のみなさまが本当にあたたかく迎入れてくださいます。その中でも、いま会場に座っていらっしゃる金泰九さんが生徒達を本当に可愛がってくださって、その中で教育的効果も上がり、心から感謝しております。

 はじめて生徒達といっしょに長島愛生園を訪問させていただき、3日間の合宿交流会を終える最後の、お別れのあいさつをかわしたある場面を思い出します。両手の指がそれぞれ1本の生徒がその合宿交流会に参加していたのですが、その生徒の手を握りしめて、金泰九さんが握手をしてくださいました。そのとき金さんがこういわれたのです。「僕の手には感覚がないんだよ。それにしてもなんて神々しい手なんだろうね」。生徒はとても驚いていましたが、とてもうれしそうにしていました。そういった出会いの中で、生徒達はとても元気づけられ、そして勇気づけられていきます。私は、そういう出会いをいっぱいつくりたいと思っています。
( 中略:昨年12月25日〜27日、長島愛生園にて開催した「教育部会準備委員会の概略 / 設立の趣旨・目的など」を説明 )

 準備会の学習会でお話してくださいました近藤宏一さんは、赤痢病棟での「患者付き添い」に従事された後、赤痢を患って生死をさまよい、最終的には失明されました。近藤さんからハーモニカの音色も聞かせていただき、わたしたち参加者一同はとても感激したわけですが、わたしたちが近藤さんから託されていることは何か。それは、どこの療養所もそうですが、たとえば戦前・戦中の長島愛生園にもたくさんの方々が収容され、食糧事情も非常に劣悪だったわけです。子どもたちもその増産にかりたてられ、時には、海岸から素足で石を運んで畑を作り、手足は血まみれになっていきました。子どもたちは治療も教育もままならない、そういう中でたくさん亡くなっていきました。戦前・戦中、たくさんの入所者が犠牲になり、死亡率が上がっていきましたが、子どもたちの死亡率はその中でもさらに高かったのではないか、と近藤さんは仰います。そして、近藤さんの光を失った目に蘇るのでしょう、ご自分の記憶をたどり、誰がどのようにして亡くなっていったのかを口にされるのです。

 わたしたちが近藤さんから託されていることは、実際どの子がどのような状態で亡くなったのか、何年に何人が亡くなったかということを正式に記録として残すということです。国のハンセン病政策の中で、おびただしい数の人々が犠牲になられましたが、とりわけ子どもたちの犠牲が多かったのではないかということを実証してほしいと、近藤さんは言われています。
 それから、同じく準備会の学習会でお話をしてくださった邑久高校新良田教室1期生・Tさんは、非常に気さくな方でしたが、こと妹さんのことに関しては、体を震わせ憤って話をされました。妹さんは病気ではありません。ご自身が長島愛生園に入所したことによって、妹が学校で相当ひどいいじめを受けた、そして教員もいじめていたらしいということでした。最終的に教員が「学校に来なくてもいい」と言い、妹さんは学校に行けずに、どうも卒業証書が発行されていないようだ、とも言われていました。このようなことは家族部会とも連携を深めて解明をしなければならない問題だと思っています。

 こんなお話を聞かせていただくと、わたしたちはこの教育部会に、覚悟して関わらなければいけないと、思いを新にしました。
 長島愛生園の子ども地帯、愛生学園のある地帯を光田健輔は「望ヶ丘」と名付けました。「教育とは、希望を語ること」だと言う教育哲学者もいますが、果たして子どもたちに希望があったのか、そういう教育をやってきたのか、そして、わたしたち教育にたずさわる者が現在、希望を語る教育をやっているのか。ハンセン病問題をとおして、希望が語れる、あるいはまた、差別に怒りを抱きつつ、希望がもてる学びを保障しなければならないと思っていますが、その前提として、わたしたちが、わたしたち自身の差別意識を見つめて、それを、取り組みを通じて洗い流さなければならないと思っています。

 全国で個々の教職員、個々の学校、個々の地域でさまざまな取り組みがあると聞いていますし、また、ある程度は知っていますが、その個々の活動を束ねて、そして学びあっていく、そんな教育部会にしたい、と思っています。
 昨日も全体会にて提言がありましたが、やはり、国や自治体の教育機関にも働きかけながら、活動していかなければならないと思っています。私からは以上です。

江連 恭弘

 検証会議で「教育界」の役割と責任について書かせていただきました。検証会議で明らかになってきたこともありますが、未解明な部分・残された課題は数多くありますし、一つひとつが重い課題だと思います。
 検証会議では、療養所での教育(施設、内容、教師など)や子どもたちのおかれた状況、新良田教室、黒髪校問題、教科書分析などを軸に検証を行いました。この市民学会「教育部会」では、検証会議の内容をあらためて批判的に捉えなおしながら、ハンセン病療養所の子どもと教育の問題について史資料の掘り起こしや関係者へのききとりを進めること、教育実践や学習教材の交流などを積極的に行っていくこと、教科書や副読本などの分析などを進めたいと思います。とくに、「患者児童」として療養所生活を送った子どもたち、いわゆる「未感染児童」などと呼ばれた「保育児童」の子どもたち、そしてそこに関わった教師など、彼ら彼女らの人生における教育経験の意味とはなんだったのかを、共同して考え合いたいと思っています。
 これらの活動を通して、あらためてハンセン病をめぐる子どもと教育の問題とは何かを考えるとともに、自分自身が子どもと教育にたずさわっている一人の教師として、その自覚と責任をもって、「いま」の問題として考えてみたいと思います。
 なお、これらに関心を持つようなったのは、大学時代の経験がきっかけでした。そのときに知り合ったのが、亡くなられた冬敏之さんでした。冬さんのように、ふれたくなかったこともふくめて過去の実態を語っていただいた方への思いを大切にしながら、語り得ない人たちや語ることなくその命を奪われていった子どもたちの声なき声に耳を傾け、聴きとっていく責任があると思っています。

佐久間 建

  多磨全生園の近くの東京都東村山市で小学校の教員をしている佐久間と申します。 

 教師が犯してきた加害者性ということを考えると、我々の先輩の教師達、現在の教師達がハンセン病を教育の視野から切り捨ててきたことを考えると、ハンセン病市民学会に教育部会ができたということは、戦後教育史の一つの画期ではないか、大げさかもしれませんがそのように思っています。 

 前任校は全生園のすぐ近くですが、私がその小学校に来た時は、交流も学習も全くしていませんでした。しかし、一九九三年以降は、徐々に学習と交流を進めるようになり、現在では東村山市のすべての小中学校で全生園との交流やハンセン病に関わる人権学習が取り組まれるようになりました。今、会場にいらっしゃる森元美代治さんを始め、多くの入所者・退所者の方々のご協力のおかげで、子どもたちに大変よい学習をさせていただいていると実感しています。 

 一点だけ結論めいたことを言わせていただくと、被害体験だけを強調し、マイナスのイメージに終わるだけの授業ではいけないということです。まず基本的には、どんな被害があったか、どんなに辛かったか、そういう学習をしっかりすることが勿論大切です。病気のことも正しくと教えなければいけないと思います。 

 それから、私が実践を通しながら感じていることは、辛かっただけではなく差別に抵抗した歴史があること、その中を生き抜いてきた人の強さ、未来に向かって差別の中をくぐり抜いてきた人達の逞しさや明るさをも学ばせることが、重要ではないのかということです。中途半端に学習した子どもの感想文には、「かわいそう」という表現が大変多く出てきます。「かわいそうでした」、「昔の日本はひどかった」という同情です。ところが学習を深めた子どもたち、療養所の皆さんとふれあいながら学習を重ねてきた子どもたちは、まずそのような感想には終わりません。素晴らしい入間性に出会い、ああいう生き方をしたい、あるいは自分も全生園の隣りに住む人間として何かできる事をしなくちゃいけない、そのような考えに至ります。最終的には地域の人や親を呼び、地域から差別を一掃することをめあてに学習発表会をするのが六年生の学習です。 

 次に、療養所近くの学校の教員として、過去の療養所付近はどのような状況であったのか、大正時代の二つのエピソードを紹介します。一つめは故・桜沢房義さんの『全生今昔』という本の中の事例です。不適切な表現ですが、歴史的事実として紹介します。桜沢さんは入所の日に、「子供が四、五人遊んでいたが、私たちを見かけると『アア、クサリボウ』と囃したてた」という差別を受けました。そして、「私は走って行って子供の横面を思いきり殴ってやりたかった」「異郷に来て初めて聞く言葉が腐りボウ…、自分も人間として世間に通用しない奈落の底へ投げ込まれたのか」という感想を述べています。これが大正時代の全生園近くの子どもたちの実態でした。二つめは、同じ大正期に多磨全生園を訪問した経験のある方の事例です。当時、全生園と近隣の学校との交流の記録はほとんどありませんが、自治会の七十周年記念誌には「化成小学校生徒八○人来院、礼拝堂で童謡、遊戯を見せてくれる」という記録があります。その八○人の児童のうちの一人が、後に民衆史で差別された人々を堀り起す仕事を精力的に進めた小池喜孝先生です。先生が私宛てに下さった手紙の中でも、この経験が「私の一生涯に強い影響を与えた」と書かれています。また「少年時の記憶、民衆史運動の原点に」という新聞記事も書かれています。この事例は、ハンセン病に関する教育、ハンセン病療養所の方々との交流がどれ程大きな意味をもつかを示唆しているのではないかと思います。
  
 私は先日、各療養所のある市や町の小中学校三八五校にアンケートをお願いし、「交流」と「学習」の状況を調査しました。回答率は六○%です。その結果を簡単にお伝えしますと、各療養所と何らかの「交流」を実施している学校は約一八%、「学習」を実施している学校は約二八%です。しかも特に「学習」は昨年一年間でほぼ倍増している状況です。 

 昨年度の教科書改訂では小学校六年用の社会科教科書二社にハンセン病が教材として初めて取り上げられました。政府や自治体の発行する啓発冊子、パンフレットも学校に届くようにはなりました。しかし、全国の中学生に配られた啓発パンフ『私たちにできること』は「配っただけ」の例が多いと聞きます。自治体発行の啓発誌は主に厚生関係部局が作成していており、教師や教育委員会は関与していない場合がほとんどです。 

 ハンセン病に関わる人権教育はようやく盛んになりつつありますが、私たち現在の教師たちは過去の教師や教育界がおかした過ちを反省も総括もすることなく今日に至っています。政府や教育行政の方針転換に従うだけの「上からの人権教育」であるなら、私たちはらい予防法時代の教師たちと同じ構造の中にあるといえるのではないでしょうか。 

 その意味で、私たち教育部会の果たすべき役割と責任の重さは大きいと思います。教育部会の充実をもとにして、さまざまな教師に呼びかけていきたいと考えています。

福安 和子

 鳥取市用瀬町から参加しました福安和子です。私は昨年定年退職をするまで、40年余り保育園に勤めていて、保育専門でずっときました。

 今回、教育部会からのお誘いを受けた時、「教育」というと「学校教育」のイメージがあり、少し分野が違うのではないかとの思いがありました。しかし、代表の延先生の「この教育部会は、幼稚園・保育園から小学校、中学校、高等学校、大学の先生たちや、その他社会で教育に携わっている人など幅広い人たちで組織していきたい。」とのお言葉に、「教育」を幅広く捉え、考えていらっしゃることが伝わってきました。長年幼児教育に関わってきた者として、即答(準備会に)入会しました。

 乳幼児を保育する中で子どもたちに、同和保育とは・・・、人権教育とは・・・、などと教えたことはありません。ましてやハンセン病とは・・・なんて教えたことはありません。が、ある日のこと、年長組の女の子のおたより帳に「最近『時の響きて』(ハンセン病問題の絵本)を読んでと言うので、毎日読んでいます。」と、お母さんが書いておられました。そこで私は「毎日読んでもらっているの?」と女の子に尋ねると「うん・・・。せんせいあの人たちは、失格なことをしたんだよ。(堕胎の事)」と返ってきました。あーこの子は、ちゃんとわかっているんだ。こんな幼い子に教えるのは無理だろうと思っていた自分をつよく反省し、改めて幼児教育の大切さが身に沁みました。
私が常に思っていることは、子どもたちにどう指導するのか?の前に、周囲の保育士が、先生が、大人が、人権問題に目を向け、積極的に取り組み、人権感覚を身に付けることが大事と思っています。そして、誰かが動かなければ何も変わらない。誰かが動けば何かが変わる。動こうと思う気持ちがあれば誰でも出来る。自分が動く。

 人権感覚を身に付けた大人たちに囲まれて、人権確立の地域・土壌の中で子どもたちを育てたい。そんな空気が漂っている中で子育てしたい。私の願いです。

 この教育部会が、その役割を少しでも果すことができることを願って、これからも皆さまと一緒に取り組み、学習していきたいと思っています。

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