教育部会

市民学会 教育部会準備委員会 参加記(2)

都築 勤 つづき つとむ : 広島県福山市職員:社会教育センター

 12月25日から27日まで長島愛生園で市民学会の教育部会が開催されるので参加しませんかと延先生から誘いをうけ、久しぶりに金泰九さんに会えることもあって二つ返事で了解しました。(個人的な事情で参加が危ぶまれる危機がありましたが・・・)
 初日からハードなスケジュールで、3本の実践報告がありました。
 東村山市の佐久間先生が療養所の隣にある小学校という地の利を生かした実践を発表されましたが、圧巻でした。さまざまな機会(例えば美しい自然が残っていること)を利用して療養所を子どもたちの学びの場として活用する中で、ハンセン病問題を身近な問題として学習していく実践は、真似をすることは難しいが、すばらしい実践発表でした。
正則高校の土田先生は、学校方針として人権問題に取り組んでいる状況を報告してくださいましたが、まだこういうすばらしい学校があるんだとうれしくなるような報告でした。正則高校のように修学旅行(学習旅行)や社会見学のコースにハンセン病療養所を組み入れることは他の学校でも可能ではないか、また、社会教育の中でフィールドワークとして訪問することもできるわけで、そうした企画も考えていかなければと考えさせられました。
 C先生は美術・芸術作品を通じて啓発していくという手法について発表されました。その中で、今回の実践発表でもっとも印象に残った話題が提起されました。
 それは、ハンセン病患者の悲惨な歴史や療養所での過酷な生活を強調すればするほど、子どもたちの中には「かわいそう」という感情が大きくなって、結果的には「わたしはハンセン病にならなくてよかった」という感覚をもたせてしまうが、政治や学会の圧力に抗して隔離政策に反対した小笠原登の態度には子どもたちは自分を置き換えて考えたり感じたりすることができるという内容でした。
 これはとても大きなことを提起されているという気がしました。私が携わっている社会教育では「人権問題を自分の問題として考える」ことが課題解決の出発点だと言われますが、ともすれば「情報の提供」と「知識の習得」で終わりがちです。C先生の提案はどうやって「人の心を動かすか」を考えるヒントになりました。科学的に正確な知識を得ることや、残虐な隔離政策の歴史を学ぶことはもちろん大切ですが、それだけでは「自らの課題として考え、課題解決に努力する」人々は生まれてきません。共感し、ああいう生き方をしたいと感じられる(同化)ような人物や歴史を学ばなければ「自らの問題にできない」のだと思いました。さらに、「患者さんの不当な差別と闘う姿勢にこそ共感し、同化できるものがあるのではないか」という意見が出て、また「なるほど!」と感じました。
 ようは、不合理と闘い、社会変革をする生き方に共感し、わたしもそういう生き方がしたいと考えられるように伝えることが大切なのだというのが今回の最大の収穫でした。いままでも同じようなことを考えてきましたが、また新鮮な感覚でとらえられたことを喜んでいます。
 ありがとうございました。

岡村 道子 おかむら みちこ : 大阪府立 中学校教諭

 この3日間の学習は非常に意義深く、本当に参加してよかったと思っている。

 まず、1日目の三人の先生方の実践発表だが、佐久間先生の実践は、療養所に近い学校であることを最大限生かしたすばらしい取り組みであった。しかし近ければ近い分、偏見も厳しい中で、同じ職場の先生方を巻き込み、全校の取り組みとしてだけでなく、東村山市全体にも広げてこられた先生の熱意に心を打たれた。近くであろうと遠くであろうと、差別を許さない強い気持ちがあれば実践できるのだということを改めて感じた。
土田先生の正則高校の実践では、自分自身の考えの甘さを思い知らされた。私は今まで、自分のために学ぶものだ、と思っていた。知らないことは罪である、だから知らなければならない、と思ってきた。しかし正則高校では、誰かのために無知であってはならないから学ぶのであり、知るということは背負うことであり重いことなのだ、と生徒に語りかけていることを伺った。私には背負うことの重さの自覚が欠けていた・・・。

 C先生からは、道徳、総合学習に限らず、いろいろな教科・領域で取り組むことのできる幅広い実践例を提示していただいたとともに、どんな状況においても取り組もうと思えば、これだけのことができるのだ、という先生の温厚なお顔立ちの下に秘められた熱い思いを感じた。

 次に、2日目はまず近藤宏一さんのお話を伺った。私の所属する“ハンセン病に対する差別・偏見をなくす市民ネットワーク HIROSHIMA”の機関紙で近藤さんのことを知り、ハーモニカ演奏とともにお会いするのを楽しみにしていた。初めに、「小6の4月28日に新しい教科書、ノートを使うことなく入所しました・・・」とおっしゃった言葉の中に、病気によって学ぶ権利を奪われた無念さを感じた。そして、かたくなに入所を拒否されたお母さんが、近藤さんもまた発病したことを知った時や、その近藤さんを残して生を終えなければならなかった時の思い、兵隊検査を受けてくれるなとおっしゃったお父さんの気持ち・・・、そういったことを背負いながらも、近藤さんになにか清々しいものを感じるのは、患者は何もできない、と思っていた光田園長をうならせた“青い鳥楽団”の楽団長として24年間、そして今もなお現役としてがんばっておられるからであろう。ハーモニカを見せていただいたが、6本のハーモニカを木枠にはめ、調に合わせてハーモニカを替えることができるように回転式になっており、実に工夫されていた。また、点字楽譜や数字楽譜を使って楽譜を読んでおられたことも伺った。そこに、長島に来て生活に何の希望も持てなかった人々が、音楽を通して生きる喜びを見い出し、病気によって奪われたものを取り返していった姿を見た。 

 フィールド・ワークでは、一朗道、新良田教室跡、望が丘、万霊山、歴史館を廻ったが、万霊山の納骨堂では、近藤さんが「ハンセン病とは、名前を変える病気です」とおっしゃった通り、亡くなった後も偽名で納められている方がおられることや、「ここにあと500体、入れることができます」と案内して下さった金泰九さんがおっしゃった言葉が忘れられない。 

 その後、新良田教室1期生である田村保男さんのお話を伺った。田村さんのご家族の話では、ハンセン病に対する偏見によって生み出された差別行為の厳しさを目の当たりにした。そして愛生園に来た時、「来る所まで来てしまった・・・」と思われた田村さんだったが、高校ができることを知って予備校で勉強し、見事合格される。病気によって奪われた自分の可能性や夢、権利を、自身の手で取り返していく姿に、近藤さんの時と同様、心が震えた。

 差別の実態、からくりを教えるだけでなく、そこから立ち上がっていった人々の姿を私自身がどう受け止め、どう子どもたちに語っていくかということが大切であるが、そういう意味で今回お話を伺ったお二方、オブザーバーの金泰九さん、宇佐美治さんからじっくりお話を聞くことができたのは、本当に貴重な体験であった。そして、参加した方々の思いに触れることもでき、いよいよ4月から教員としてのスタートを踏み出すこととなった私にとって、この3日間は大変有意義な時間となった。が、ここで終わることなく、知ることとは背負うことであり、その重みを自覚しながら、これからの実践に生かしていきたいと思う。

Aさん

 長島愛生園の金泰九さんからご紹介いただき参加しました。それまで、ハンセン病市民学会の存在すら知りませんでした。参加された皆様の熱意と博識、行動力、実践力の熱さと厚さに圧倒されるばかりの二日間(最終日はどうしても勤務しなければならなかったもので、失礼して申し訳ありません)でした。岡山県内に在住・在勤していながら、あまり、愛生園・光明園に足を運んでいない自分、教育実践の浅い自分、運動面は全く取り組むことのできていない自分を痛感した二日間でもありました。こんな私をも手厚く遇して下さり、また、初歩的なことから教えて下さり、深く感謝しています。

 初日はお二方の実践を伺いました。

 東京・東村山市立野火止小学校・佐久間さんからは、多摩全生園に隣接しながらそれまで取組のなかったハンセン病差別の学習を開始・継続・発展させている実践を伺いました。いくら地の利があるとはいえ、ゼロを1にするのは相当な力が必要だったと思います。それを、1から2へ、10へ100へ、他校・転勤校へ、隣接市へと拡げることも。私の今までの実践がせいぜい、学年団、しかも単年どまりなのが恥ずかしい限りです。

 東京・正則高等学校・土田さんからは、学習旅行(他校でいう修学旅行)での療養所訪問と事前・事後指導の取組をうかがいました。共生と民主主義を全面に掲げて教育活動をしていることにまず、驚きました。当たり前といえば当たり前のことなのですが、口に出すというか、実行するのはなかなか困難なことです。それを学校全体として位置づけておられるところに感銘を受けました。学習旅行もお遊び旅行ではなく、重要な教育行事としてしかも、旅先での直接的な「出会い」を構成されている点は、他校・異種校でも可能な広がりのある実践と思いました。

 お二人のご報告に比べ、皮相的でその場かぎりの感のぬぐえない私の報告でした。お二人が深く深く掘り下げておられるのに対し、私の報告は諸事情もあり、誰でもといえば語弊がありますが、広く活用されることをめざして考えた実践です。その方向は間違っていないというか、そういう方向性も必要と今も思ってはいるのですが、指導者のバックボーンとなる知識や熱意の面で、未熟きわまりないことがよく分かりました。

 二日目は入園者の方々のお話を伺いました。

 金さん・宇佐美さんには何度もお話を伺ってきましたが、近藤さん・田村さんとは初対面でした。当然のことながら、入所者一人一人には一人一人個別の歴史があり、従って、ハンセン病差別に対する闘い方も、様々あることが分かりました。私が報告した実践では、国賠訴訟や邑久長島大橋架橋運動は有名で、もちろん取り上げるべき運動だと思っていますが、今回紹介いただいた近藤さんたち「青い鳥」楽団の活動や田村さんたち邑久高校・新良田教室の歴史も、国賠訴訟や邑久長島大橋架橋運動とはちがう形ながらも、ハンセン病差別と向き合い闘ってきた歴史だということを学びました。そういう一人一人の闘いの歴史を掘り起こし、私は教職員の立場ですから教材化して教育実践として積み上げていくことが必要であると考えています。
 今回の設定・運営をしてくださった延さん・岡村さん・江連さんをはじめ、全ての出席者の方に深く感謝しています。ありがとうございました。

Bさん

 私が長島に足を運ぶきっかけとなったのは、妻が出会った一人の在日韓国人女性の存在でした。その女性は、聴覚に障害がありました。国籍用件によって、障害者基礎年金を受給できない問題について、県内の支援者の集まりがあり、その女性と出会うことになりました。その集まりの中で、彼女が長島のハンセン病療養所に入所されている在日の朝鮮・韓国人の方々を毎年仲間数人で訪れていることを知り、その機会にたまたま同行したのがきっかけでした。長島愛生園の入所者の1割を超える方が在日の方と知ったときは、本当に驚きました。なぜ、それほど多くの在日の方々が、療養所で生活しているのか。車座になってお一人お一人から話を聞きながら、ハンセン病のこと、日本と韓国・朝鮮の歴史など、自分がもっと知らなければならないことに気付き始めたように思います。

 私は、“人間回復の橋”と呼ばれる「邑久長島大橋」が完成したときのことは、新聞やテレビのニュースで知ってはいたものの、特に大きな関心をもつこともありませんでした。その一方で、同じ年に開通した瀬戸大橋完成の際には、児島から坂出までを喜び勇んで自転車で渡り初めしたものでした。
 私が加入している岡山県人権教育研究協議会(岡山県人教)では、らい予防法の廃止を契機に、県内内外の人権・同和教育関係者を対象に長島愛生園のフィールドワークを続けてきました。金 泰九さん、宇佐美 治さんには、第1回目の時から大変お世話になっています。

 さて、今回の準備会学習会の中で、同和教育に携わってきた教育関係者のハンセン病問題への取組が十分ではなかったのではないかとの指摘がありました。岡山県でも、同和教育こそが具体的な教育実践として、県内の人権教育をリードしてきたとの自負をもっていますが、ハンセン病問題への理解や認識は不十分なものでしかありませんでした。現在、県内でも岡山県人教教が作成したハンセン病学習素材集等を活用した教育実践が少しずつ取り組まれるようになってきています。今回お集まりの皆さんの実践から、全国的な視野でハンセン病問題を考えることができ、大いに刺激を受けました。

 夜の交流会で、金さんから提案のあった“かわいそう”という感想の問い直しは、今後とも大切にしていきたいと思います。金さん自身が、不自由者棟の人たちの障害の重さに対して、自然と何か手伝いたい気持ちになり、その気持ちの一端として“かわいそう”と自分の気持ちを率直に表現されました。金さんをお呼びし、子どもたちと学習したときの感想にも、同様の感想があったように思います。そうした“かわいそう”を否定するのではなく、その言葉で表現しようとした思いをしっかりと受けとめることの大切さ、その気持ちをさらに確かな理解と認識に高めたり、自分のこととしてかかわり続けたりできるようにすることをこれからも大切にしていきたいと思います。

 “かわいそう”で終らせないという思いで授業を作っている。また、 “差別や偏見に立ち向かっている生き方のかっこよさ”こそが、子どもたちの“かわいそう”を乗り越える学習につながるとのお話は、教育実践から生まれた言葉で、これからの授業に生かしていきたいと思います。

 らい予防法の廃止や国賠訴訟の勝利を受け、国や国民の責任が問われ続けていますが、今回の学習で指摘のあったソロクトや台湾の療養所の実態は、国内の療養所の処遇よりさらに過酷なもので、植民地下の国の意識が反映されていたものと思います。二つの訴訟に対して違った判決が出されたこと、その法的根拠とされたらい予防法の違いもまったくの詭弁と言わざるを得ません。断種が懲罰として行われていた事実、結婚の条件として断種を仕方なく受け入れていた入所者、そして面会にきた入所者の家族の中にも断種を強要されていた人々がいたことなども、新しく知った事実でした。これらの人々に対する責任の所在は、今も曖昧なままですし、そうした人権の回復こそ、急がれなければなりません。強制収容によって家族とのつながりを絶たれてしまった人々や故郷で生活できなくなった人。元患者とその家族の生活を足元から覆してしまったことの責任を、法的な判断に委ねるのではなく、自らの判断として誤りを認めることがもっとも重要なことではないでしょうか。そうした人々の人権回復のために何が必要なのか。そうした歴史の事実を具体的に教材化し、子どもたちとともに学習を続けていきたいと思います。

 田村さんからお聞きした新良田での学習の様子も、印象深いものでした。勉強こそが生きる証のような、希望といえるものいであったが、勉強した先の進学や夢などは持っていても実現の望みはなかったと話されました。しかし、親身に生徒に向き合い続けた教師がいたことや大きな支えになっていたことも知ることができました。療養所の生活を、子どもや教育の視点から見直すことによって、その差別と偏見の内実がさらにはっきりとしたものになるのではと感じた3日間でした。

延 和聰 のぶ かずとし : 広島県 盈進(えいしん)中学高等学校 教諭

 参加していただいたみなさま方の熱いお気持ちに何度もこころを打たれました。自分もこのなかまの中で、できるだけのことをやりたいと思いました。まず、参加していただいたみなさまにお礼申し上げます。ありがとうございました。

 現代の日本には、部落差別・障害者への差別・在日コリアンをはじめとする在日外国人への差別・女性差別、そしてハンセン病に対する差別などなど、人権の問題、差別の問題が存在しています。私は、それらの差別の解決は、教育が担う部分が多いと思っています。教育は、学校教育だけではなく、家庭教育や地域教育も含めて教育だと思っていますので、できるだけ多くのみなさまに広く教育部会への参加を呼びかけたと思っています。

 私は、広島県の盈進(えいしん)中学高等学校という私学の教員です。1997年、らい予防法廃止の次の年に、本校の卒業生が長島愛生園の職員にいるということもあって、当時、障害者問題研究部というクラブの顧問をしていました私が、生徒20名ばかり連れて泊まり込みで長島愛生園のフィールド・ワーク(合宿交流会)に行ったことがハンセン病問題に関わる出発点となりました。その中でひとりの生徒が親から参加してはならないと言われたことが、深く私の心の中に刻まれました。障害者問題研究部ですから、肢体不自由の生徒であるとか、家族に障害をもった方がいるという生徒、耳が聞こえない生徒などがいましたけれど、その中のひとりがお母さんから、参加してはならないと言われました。話を聞くと、お母さんの知り合いが医療従事者で、その方が、長島愛生園のようなところに行くと病気がうつるかもしれないと生徒のお母さんに伝えたということでした。

 このように、わたしたちの身近に差別が存在していたということを突きつけられましたので、私は、このハンセン病問題をしっかりと教育プログラムの中に位置づけていかねばならないと思い、これまで取り組んできたつもりです。

 療養所には何度足を運んでも特に、自治会のみなさまが本当にあたたかく迎入れてくださいます。はじめて生徒達といっしょに長島愛生園を訪問させていただき、3日間の合宿交流会を終える最後の、お別れのあいさつをかわしたある場面を思い出します。両手の指がそれぞれ1本の生徒がその合宿交流会に参加していたのですが、その生徒の手を握りしめて、金泰九さんが握手をしてくださいました。そのとき金泰九さんがこういわれたのです。「僕の手には感覚がないんだよ。それにしてもなんて神々しい手なんだろうね」。生徒はとても驚いていましたが、とてもうれしそうにしていました。そういった出会いの中で、生徒達はとても元気づけられ、そして勇気づけられていきます。私は、そういう出会いをいっぱいつくりたいと思っています。

 今回お話してくださいました近藤宏一さんは、赤痢病棟での「患者付き添い」に従事された後、赤痢を患って生死をさまよい、最終的には失明されました。わたしたちが近藤さんから託されていることは何か。それは、どこの療養所もそうですが、たとえば戦前・戦中の長島愛生園にもたくさんの方々が収容され、食糧事情も非常に劣悪だったわけです。子どもたちもその増産にかりたてられ、時には、海岸から素足で石を運んで畑を作り、手足は血まみれになっていきました。子どもたちは治療も教育もままならない、そういう中でたくさん亡くなっていきました。戦前・戦中、たくさんの入所者が犠牲になり、死亡率が上がっていきましたが、子どもたちの死亡率はその中でもさらに高かったのではないか、と近藤さんは仰います。そして、近藤さんの光を失った目に蘇るのでしょう、ご自分の記憶をたどり、誰がどのようにして亡くなっていったのかを口にされるのです。

 わたしたちが近藤さんから託されていることは、実際どの子がどのような状態で亡くなったのか、何年に何人が亡くなったかということを正式に記録として残すということです。国のハンセン病政策の中で、おびただしい数の人々が犠牲になられましたが、とりわけ子どもたちの犠牲が多かったのではないかということを実証してほしいと、近藤さんは言われています。

 同じく今回お話をしてくださった邑久高校新良田教室1期生・Tさんは、非常に気さくな方でしたが、こと妹さんのことに関しては、体を震わせ憤って話をされました。妹さんは病気ではありません。ご自身が長島愛生園に入所したことによって、妹が学校で相当ひどいいじめを受けた、そして教員もいじめていたらしいということでした。最終的に教員が「学校に来なくてもいい」と言い、妹さんは学校に行けずに、どうも卒業証書が発行されていないようだ、とも言われていました。このようなことは家族部会とも連携を深めて解明をしなければならない問題だと思っています。

 こんなお話を聞かせていただくと、わたしたちはこの教育部会に、覚悟して関わらなければいけないと、思いを新にしました。
 長島愛生園の子ども地帯、愛生学園のある地帯を光田健輔は「望ヶ丘」と名付けました。「教育とは、希望を語ること」だと言う教育哲学者もいますが、果たして子どもたちに希望があったのか、そういう教育をやってきたのか、そして、わたしたち教育にたずさわる者が現在、希望を語る教育をやっているのか。ハンセン病問題をとおして、希望が語れる、あるいはまた、差別に怒りを抱きつつ、希望がもてる学びを保障しなければならないと思っていますが、その前提として、わたしたちが、わたしたち自身の差別意識を見つめて、それを、取り組みを通じて洗い流さなければならないと思っています。
 
全国で個々の教職員、個々の学校、個々の地域でさまざまな取り組みがあると聞いていますし、また、ある程度は知っていますが、その個々の活動を束ねて、そして学びあっていく、そんな教育部会にしたい、と思っています。どうかよろしくお願いいたします。

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