教育部会
市民学会 教育部会準備委員会 参加記(1)
江連 恭弘 えづれ やすひろ : 神奈川県 法政大学第二中高等学校教諭
新たな出発に希望と期待をこめて
2005年12月25日から27日にかけて、長島愛生園で行われたハンセン病市民学会教育部会発足に向けての準備委員会に参加した。交流・検証・提言を柱とするハンセン病市民学会において、以前から教育部会の立ち上げが求められていたこともあって、その準備委員会として全国から十数名の方々が集まった。私が「ハンセン病問題と教育」に関わるテーマを取り上げる教育部会に関わるようになったのは、ハンセン病問題検証会議の「最終報告書」で「教育界の役割と責任」の部分を書かせていただいたことが直接のきっかけである。もちろん、日ごろは高校の教員をしているので、ひろく教育問題についての問題関心もあった。今回の準備委員会開催にあたっては、広島の延さんと連絡を取りながら、そしてほとんど延さんに何もかもお任せした状態のまま、当日を迎えることになった。当日顔を合わせたメンバーは、ほとんどがお互い初対面。メールのやりとりではなく、やはり直接出会うことの意味とそれが持つ力は大きいと感じた。さて、初日は小中高それぞれの教育現場からの実践報告であったが、いずれも芯のある精力的なものばかりだった。全生園近くの小学校に勤務されている佐久間さんの実践は、学校全体でこれだけの実践ができるとは!と思うほど驚きの連続だった。今もある差別を「いま」「わたしたち」の課題として考えること、ハンセン病で学んだ人権感覚や問題意識に基づいて他のことについても考えていくこと、「人生の基盤として力になる」ような教育の実践から、教育の役割について学ぶことができた。高校の土田さんの実践は、学習旅行で菊池恵楓園を訪問する内容だった。「学ぶとは背負うこと」であり、「勉強するのは自分のためではなく社会のため」との言葉が印象的だった。中学校の吉田さんからは、小笠原登などの学習を通して、「出会いの継続のなかで変わっていく」ことや「差別をのり越えてきた人の生き方にふれる」こと、そして当事者になることは出来ないけれども一定の距離があるからこそ、それに「よりそう生き方」ができるとの話に魅かれた。また、「自分は病気にならなくて良かった」としか感じられない授業の危険性、つまり、ハンセン病を教材として扱うことの難しさについての指摘はもっともだと思った。この問題を授業でどのように位置づけるかによって、理解や認識は大きく異なってしまうと感じた。
二日目は、ハーモニカバンドで活躍された近藤さんのお話を伺った。妹さんの話や戦時中に多くの子どもたちが命を失ったという事実、そして今もって自分の本名を語れないという事実はとても重いものだった。「羽を広げた青い鳥・・・」の青い鳥楽団が、ある精神病院で「社会からはじき出された人」として、ともに「幸せなら手をたたこう」を演奏したエピソード、そして近藤さんのライブ演奏はすばらしかった。園内のフィールドワークは、高校跡に建てられた「希望」の石碑の説明からスタートした。全生学園跡の校庭の隅に作られた碑には「出発」との文字が刻まれていた。ハンセン病療養所に生きた人たちが「希望」や「出発」という文字に込めた思いは何だったのか。そして、陸地から隔てられた長島に設置され、ベル制や消毒などが常態化していたこの高校での教育はどのような「教育力」をもって子どもたちに影響を与えていたのか。心の中に抱いていたであろう「傷」と「希望」に思いをはせた。新良田の地から望ヶ丘へ上がったが、さらに山の上には光田健輔直筆といわれる「皇紀二六〇〇年」の碑が聳え立っていた。光田と皇室の恩恵に見下ろされたところに子どもたちの学びの場があったのかと思うと、いたたまれなくなった。ハンセン病者を取り巻く構造が垣間見た気がしたた。
フィールドワーク後に伺った田村さんのお話については別記したとおりだが、やはり、田村さんの家族をめぐる話にはなんともやりきれない思いを抱いた。妹さんをはじめ、家族におよぶ影響の深刻さは、何度聞いても悲しみと怒りを覚える。国による強制隔離はもちろんだが、それを意識的・無意識的に一人ひとりの「普通の人びと」が支えていたことは拭い去ることの出来ない歴史的事実だし、今を生きる私たち一人ひとりの問題であるという意味は重い。なお、田村さんの話からは、さまざまな教師がいたことを知ることが出来た。とくに興味深いのは、そこで働く教師たちの中には、「新良田」という強制隔離の地であるとともに社会復帰へとつながる地において、揺れ動きながらも子どもたちに真摯に向き合おうとしていた者がいたということだ。療養所にいた教師たちの存在と役割について、今後、さらに考えて行きたいと思った。三日目は、金さんと宇佐美さんのお話をうかがった。今回訴訟が起こされたソロクトや台湾だけでなく、太平洋上の占領地における虐殺事件が闇に葬られてきている話をうかがった。それだけでなく、この三日間、お二人には大変お世話になった。本当に感謝したい。
学生時代以来、ハンセン病問題に関わることができたが、知れば知るほど深く重い内容で、そのたびに自分自身のことを省みざるを得ない。この問題について「わかる」などということは一生ないのかもしれないが、さまざまな人たちとの出会いを通して、少しでもわかりあいたいと思っている。今後は、「最終報告書」で書いた内容を批判的に検証し直す作業をはじめていきたい。ハンセン病療養所における教育、黒髪小学校事件に代表される地域社会との関係、新良田教室と社会復帰問題、教科書記述、そして教師について考えていこうと思っている。「ハンセン病問題と教育」をテーマにこれから教育部会がスタートするが、なるべく普段着のスタイルで、ゆるやかだけれども芯の通ったネットワークとなればと思っている。今回の出会いに感謝!
佐久間 建 さくま けん : 東京都東村山市立野火止小学校 ( のびどめしょうがっこう ) ・ 現在は上越教育大大学院
市民学会運営委員 金 泰九 (キム テグ) さんのお話 −この訴訟までの経緯、そして判決−
ハンセン病市民学会教育部会が発足し、その初の会合に参加することができて、それ自体が感無量であった。振り返れば13年前、たまたま多磨全生園の近隣の小学校に転任してきて「ハンセン病」と出会うことができた。できたばかりのハンセン病資料館は今のように多くの人が訪れることはなく、静かな館内で夢中になって展示物を見て、資料や蔵書を読みあさった。そして自治会長平沢保治氏との出会い。資料館の一室で、被差別の歴史の中を生きぬいてきた御自身から直接語っていただいた言葉は、私の心の奥底に突き刺さるようだった。「いつかハンセン病が教科書に載るようになって、命と人権の尊さを子どもたちに学んでほしい」と語った平沢氏の言葉が忘れられない。まだらい予防法が存在し、地域にも偏見と差別が色濃く残っていた頃である。以来、療養所の地域校の一教員として、全生園・ハンセン病に関する人権教育を推進しようと自分なりに精一杯取り組んできたつもりだ。年々学校の中に定着し、ハンセン病の学習と全生園との交流は学校の大きな柱となった。2002年には全生園を会場にして盛大な研究発表会を開くこともでき、市内の各校にも実践が広がっていった。いくつかの教科書ではハンセン病が教材として取り上げられるようになった。
しかし一方で、私は私自身を含めた教師集団(教育界)がハンセン病問題に対してどのような態度をとってきたのか疑問を感じ続けていた。らい予防法廃止、らい予防法違憲国家賠償訴訟での原告勝利以後、いわば行政主導の形で「啓発」の必要性が教育現場に下りてきた。ハンセン病の教訓を教育に生かすことは勿論、必要なことであり、歴史的な意義のあることである。しかし、それが本当に必要だったのはらい予防法が生きていた時代ではなかったのか。
私はハンセン病裁判の支援に関わっていない。私は支援すべきであると考えていたが、遂にできなかった。裁判に常に関心をもって見守るのみであった。それは、療養所の地元でハンセン病に関わる教育を進める私の「中立性」を示すためであった。2001年の判決後、私は裁判で全生園原告のリーダーとなった森元美代治氏にお会いし、今まで支援しないでいたことを詫びるとともに、子どもたちの学習への協力を依頼した。私は裁判に対して何も協力せず、国が責任を認めてから森元氏に協力を求めた自分が情けなかった。
らい予防法という法律を盾にして、私たちの先輩教師たちは、教え子を療養所に送り込んできた。法律を遵守し「中立性の確保」のためにハンセン病の子どもに対して何もしなかった教育界、教師の加害者性は問われないのであろうか。同和問題(解放教育)や平和教育には主体的に取り組んできた教育界が、なぜハンセン病問題を無視し続けたのか。私たちは教育界の果たした負の歴史を直視し、その延長上に現在の自分達がいることを自覚しなければならない。その上で自分達ができること、するべきことを考えてきたい。
ハンセン病市民学会教育部会は今後、さまざまな教育実践を交流し、「これからの教育」の中でよりいっそうハンセン病を教育に生かすような提案をしていかねばならない。同時に「これまでの教育」を歴史的に検証していくことにも大きな使命があると思う。具体的には次のような問題が挙げられるだろう。
・戦前の修身教科書(「(1)衞生」の項で指導書では癩病について解説されている(2)光明皇后の湯浴み伝説)
・戦後の保健体育教科書や道徳副読本の誤った記述
・「ハンセン病の子ども」や家族にハンセン病者がいた子が学校で受けたいじめ、差別
・「ハンセン病の子ども」の療養所内での生活、教育
・特に療養所内で教師をしていた方からの聞き取り調査
・劣悪な環境で心的外傷を受けた「ハンセン病の子ども」がどのように生きる力を獲得していったのか
・黒髪小通学拒否事件で教師の果たした役割(熊本教組の声明)
・新良田高校の教育
今回、日本各地で熱心に実践を進めている先生方にお会いすることができて心からうれしく思った。どの方の実践報告からもハンセン病を教育に取り上げることの意義を改めて感じた。また、金さん、宇佐美さん、近藤さん、田村さんのお話は強く心に残り、勉強になった。この出会いを大切にし、今後教育部会で自分ができることを果たしていきたいと決意した。
福安 和子 ふくやす かずこ : 元 保育園長
まずは、私に声をかけてくださった延和聰先生に感謝いたします。鳥取の小さな田舎町で40年余り保育に携わり、子どもたちと共に歩んできました。直接、教育者とは言われないまでも、保育者として幼児教育の大切さは身をもって感じているところです。定年退職をした今、園長というしがらみを肩から下ろしてホッとしていますので、「元園長」という“肩書き”は私にとって、できれば避けたい不要な物と思っています。しかし、市民学会の教育学部の仲間に入れていただいて皆さまと一緒に学ぼうとする時、私の今までの保育士・保育園長の任務がどれほど自分を成長させてくれていたかを、今あらためて思い知らされているところです。やはり私の人権文化の土台は保育園での子どもたちとの生活の中で培われたものです。これからの教育部会での学習の目線も幼児期や小学生になりがちになることをお許しください。
さて、今回の教育部会準備委員会に参加して・・・。
私にとって、特に3つの大きな収穫(意義)がありました。
一つは、入所者それぞれの方の立場から、それぞれ違う趣旨のお話しが聞け、また交流ができたことです。宇佐美治さんと金泰九さんには、何回かお会いしてますし、金さんには鳥取にお出でいただいたこともあります。しかし今回は時間にもゆとりがあり、ゆっくりとお話しを聞いたり研修することができ、交流を深めることができました。近藤宏一さんには初めてお会いしましたが、ハーモニカ演奏を聞かせていただいてその美しい音色に、しばしうっとり・・・。和みのひとときでした。田村保男さんにも初めてお目にかかりました。邑久高校新良田教室の生活のお話しを聞きましたが、今まで他のどなたからも聞いたことのない貴重なお話しでした。宇佐美さん、金さん、近藤さん、田村さんありがとうございました。
二つ目は、教育現場の方からこれもまた貴重な、実践報告が聞けたことです。教育部会の佐久間建先生・土田一憲先生・C先生の幅広い奥深い実践報告を聞いて、学習の取り組みの方法は多様にあることにあらためて気付かされました。そして、その内容は児童、生徒の立場に立った実践で、教育者としての本質を教えていただいたように思います。わかってはいましたが、やはり自分が井の中の蛙であることを自覚させられました。
三つ目は、教育部会のメンバーの人たちとの新たな出会いがあったことです。これは大きいことです。
私がハンセン病問題にぶつかったのは、わずか6〜7年前で、まだまだ勉強不足です。その6〜7年間に訪れた療養所は6ヶ所、回数は合わせて25回位になりますが、今回ほど集中して一つの事柄について時間をかけ学習をしたことは今までありませんでした。ハンセン病問題を学習するのに、どんな方法でもどこから入ってもよいとは思っていましたが、こんな取り組みをされている先生方のお話しを目の前で聞けたこと、ほんとうに幸せです。報告者以外の委員の方々のご意見もゆっくり聞かせていただいて、皆さんの真剣な取り組みの姿と情熱が伝わりました。そして私は皆さんから、“やさしさとパワー”をいただきました。4名の入所者の方のお話しと交流はもちろん、教育部会のみなさんと交流できたことなど、大きな収穫を得て帰ることができました。
それぞれの立場は違ってもねらいは一つ、「ハンセン病に対する偏見や差別をなくする」こと。
意を同じくした10数名のメンバーは、初対面の人たちも多かったですのに、それを感じさせない和やかな空気がとてもうれしかったです。次回をとても楽しみにしています。
土田 一憲 うえだ かずのり : 東京都 正則高等学校教諭
私は、ハンセン病のことについて研究しているとか、そのことに力を入れて教育実践をしているとか、そうしたことはしていません。だから今回の会議に私のようなものが参加して本当にいいのだろうかと、岡山行きの新幹線の中で考えていました。長島愛生園へ向かうバスの中から「人間回復の橋」が見えた時には、思ったよりも短い橋だったので驚きました。ニュースなどで見る限りではもっと長い橋との印象を持っていました。しかし、この橋が架かるまでに本当に長い時間がかかったこと、そこに至るまで多くの人が島から出ることさえかなわずに亡くなっていったこと、更には橋は架かっても「社会」に復帰できないような現実があることを思うと、複雑な心境になりました。そして、恵楓園と全生園以外の療養所には訪れたこともないことを改めて思いだし、ますます「場違い」だという思いを抱きつつ、療養所へ向かいました。実践報告では、様々なことを学ばせていただきました。佐久間さんの実践は、「学校ぐるみ」で取り組んでいるすばらしいものだと思いました。学校全体で、年間を見通して1つのテーマで生徒に考えさせていることは、なかなか出来るものではありません。とりわけ石原都政のもとで公立学校でそうしたことに取り組むのは至難の業だと思います。そうした中で、「指導要領に載っている文言をきちんとチェックすること」や「広く外へ成果を発表し支持を得ること」などの、私立学校などではおよそ想像も出来ないような「技術面」でのご苦労はもちろん、広い範囲の多くの人からも共感を得られるテーマ・内容の授業に組み立てていることは、本当にすばらしいと思いました。全生園に近いという利点を生かして、元患者の方との交流も意図的に行っていることは、生徒に「実感」を伴った学びをさせることが出来るという点でいいと思います。「気のあった仲間とは、自分と相手の境界が分からなくなるくらい同一化する」「反面、『親密圏』にいない人はそこに存在しないかのようにあつかう」という今の子ども達には、「自分には想像もしえないような経験をしてきた人たちがいる」ことを実感させることが大切だと思うからです。(安易に『その人の気持ちが分かる』と言えてしまうのは、違うと思います)また、佐久間さんの実践では、学校での学びを生徒が家庭で話し、それによって元患者の方や療養所への見方が変わっていった例も報告されていました。学校での学びが地域を変えていった実践だと受け取り、今後更に発展させられる可能性を感じました。
Cさんの実践は、更に限られた条件の中での実践でした。教師にとって働きやすい職場をつくることがより良い教育実践を行う前提条件であるなら、今日の情勢の中で公立学校でしかも療養所に近いわけでもなく、ということはかなり厳しい条件だと言えます。しかしCさんの実践は、そうした厳しい条件ではあるけれど、その中でも工夫次第では様々な取り組み方が出来るし実践が出来る、ということを示していると思いました。社会科しか教えていない私からすれば、よくこうした切り口が思いつくなと感心するばかりでした。(図工など)しかしそれらの切り口は当然単なる思いつきなどではなく、Cさんの今までの研究の成果だということを思うと、もっともっと自分も勉強しなければいけないと思いました。中でも小笠原登に関しては不勉強だったので、今後調べたいと思います。
交流の場では、参加された方がそれぞれの場所でそれぞれの立場で頑張っている、ということを思いました。教師の方の参加ばかりだろうと思っていた私にとって、市の職員の方や元園長の方などの参加は驚きでした。しかし考えてみると、この問題が人権という普遍的な価値に関する問題だということなのだということだと思います。そしてそれは、普遍的な価値に関する問題だけにより広い範囲の人に知ってもらいたいし知ってもらう必要のあることで、だからもっと広い範囲の人に広げることの出来る問題なのだとも思います。
私も実践報告をさせていただきました。その中で、元患者の宇佐美さんから「人間を育てる教育をして下さって、ありがとうございます」とお礼を言われました。正直言って、その時は「いや、お礼を言われるほどのものでは…」と一瞬とまどいました。しかし、元患者の方々を療養所に「閉じこめて」いたのは日本の社会だということ、私もまたその社会の一員だということ、そうした中にあって社会の「不正義」に目を向けるような生徒を育てる教育をしていることに、元患者の方からお礼を言われたということ…そうしたことに思い当たり、宇佐美さんのお礼をまた違った感覚で聞くようになりました。
他の皆さんの活躍されているお話を聞き、また私も社会の一員である以上差別をなくす側の一員で在らねばならないと改めて考えさせられ、もっともっと勉強しなければと刺激を受けた2日でした。どうもありがとうございました。
都築 寿美枝 つづき すみえ : 広島県 尾道市立吉和中学校教諭
愛生園で聞いた 「 ふるさと 」 の歌
「♪うさぎ追いしかの山〜、小鮒つりしかの川〜♪・・・」近藤さんの特製6連ハーモニカ(私が勝手にそう呼んでいる)から「ふるさと」のメロディが流れる。それにつられて私たちが口ずさむ。本来なら心和む郷愁の歌であるが、ここ長島愛生園で歌うその歌は心がしめつけられるほど物悲しい。ハンセン病がゆえにふるさとから追われ、家族と離れざるを得なかった回復者たちの壮絶な生き様を知れば知るほど、この歌がますます悲哀を帯びてくる。1943年、近藤さんは戦況悪化を知り、お国のために役立とうと海軍志願を決意するが、入隊検査でハンセン病ということがわかると家庭がつぶれると父から諭され、悔しい思いを抱いて愛生園に帰った。虫明から長島への渡船に乗るが、そこでも患者と職員の席は区別されていた。霙の降りしきる甲板でハンセン病に対する厳しさをいやというほど味わったという。
戦争は弱いものから被害を受けるといわれるが、ここ長島愛生園でも1941年から1945年(太平洋戦争から第二次世界大戦の間)食糧不足で子どもたちが栄養失調になり多数死亡したという。(その数が明らかにされていないことに大きな問題を感じる。子どもたちの死亡者数とその経過を国に対して明らかにさせることが教育部会の課題のひとつであると思う。)定員1200人のところに1400人〜1800人の患者が押しこめられ、戦時下の食料不足を補うために自分たちで畑を耕し、野菜つくりをしなければならなかった。1945年の入園者1802名中332名が死亡、死因の大半は栄養失調、結核、赤痢。当時の献立は朝食に麦飯と海水の汁、昼食は塩水で炊いた野菜と麦飯、夜は代用食の芋が2〜3個であった。病人として治療を受けベッドで療養する生活でなく、野菜つくり、道路つくり、重傷者の看護などの労働に従事していた人たちの食事である。食糧事情だけでもいかに過酷な状況下に置かれていたかがよくわかる。療養所とは名ばかりで、ハンセン病患者絶滅収容所として機能していたのではないかという感をぬぐえない。戦時体制化、身体障害者や病弱者はお国のために役立たない人間としてひどく差別されたと聞くが、それが究極的な形で行われていたと考えざるを得ない。大人の患者でさえそのような状況に置かれるくらい人権を否定されていたのだから、子どもの人権などという概念のなかった当時、子どもたちの栄養失調や死亡に国がどれだけ関心を払っていなかったかということは押して知るべしである。再度強調したい。戦時下のハンセン病療養所における子どもたちの死亡数、原因をまず明らかにさせること、なぜこれまで明らかにされなかったかを国に明らかにさせる必要がある。そこから見えてくることを私たちは教材化し、子どもや保護者とともにハンセン病問題に向き合って行くべきであろう。
愛生園から帰ってあの「ふるさと」を口ずさんでみた。懐かしさでなく、悲しさのような胸を締め付けられるような感覚をどこかで経験したような気がする。あれはどこだっただろうか・・・。韓国慶州にあるナザレ園だ。ナザレ園で日本人おばあさんたちがお別れのときに歌ってくれたのがこの「ふるさと」の歌だった。「♪うさぎ追いしかの山〜、小鮒釣りしかの川〜♪・・・」は両者にとって帰りたくても帰れなかった断腸の歌だったのだ。ともに国家の利益の前に犠牲を強いられた人々なのだ。
「 まとめ 」 担当 : 岡村 道子