教育部会

学習交流会

2日目 12月26日(月)

学習会2 聞き取り学習
長島愛生園入所者 近藤 宏一さん 「 愛生学園の生活と " 青い鳥楽団 " そして, わたしのふるさと 」

○ 父が荷物の中に入れてくれたハーモニカ −汽笛と "♪ふるさと "−
 愛生園に入園して、その後のわたしの生活を決定づけることが2つありました。1つは、荷物の片隅に父親がハーモニカを入れていてくれたことでした。初めて手にするハーモニカでしたので、それを吹く姿を人に見られたら恥ずかしいので、ポケットに入れて、望ヶ丘(長島愛生園の子ども地帯にある小高い山とその周辺)の小高い山の頂に登って吹いていました。曲も作ってみたりしました。
 望ヶ丘に登って、耳を澄ますと汽笛の音が聞こえてきました。汽笛は郷愁を誘います。あの汽車に乗ったら大坂の家に帰れると思いました。しかし、それはかなわない。涙がボロボロと流れてきました。その悲しみに包まれて吹いたのが“♪ふるさと”だったんです。汽笛と “♪ふるさと” の曲は、わたしのこころにしみこみました。この経験がわたしとハーモニカを強く結びつけて、わたしの人生を決定づけたのです。
○ 「 平時 」 の望ヶ丘
 望ヶ丘の少年・少女寮は、当時、全入所者約1300名のうち、男女併せて80名から90名いたと思います。小さい子は6〜7歳から、最年長は18歳までです。5つあった少年少女寮は、国の予算では到底建てられるはずもなく、すべての寮は全国から募った寄付によって建てられていました。
 望ヶ丘の生活には4つの組織があり、4つの生活がありました。
 1つめは寮生活。男子の寮には“おとうさん”とよばれる寮父。女子の寮には“お母さん”とよばれる寮母がいました。それぞれが独自の共同生活を営んでいました。
 2つめは、愛生学園。愛生学園は、尋常高等小学校というかたちをとっています。長島愛生園長の光田健輔が学園長でした。
 3つ目は、愛生少年団。海軍の軍服が団服になっていました。
 4つ目は、愛生学園での教育を終えた子どもたち(年長の子どもたち)の勤労作業。患者作業の一環として、男子は望ヶ丘の斜面にある段々畑(5000u)を耕して、女子は洗濯作業などに従事します。
 以上の4つの組織が平時の姿だったのです。
○ 「 戦時 」 の望ヶ丘
  しかし、太平洋戦争がはじまってから生活が変わりました。園は、戦時体制にあわせて“望ヶ丘錬成道場”という組織をつくって、平時の4つの組織を1つに統括したのでした。寮父たる“お父さん”と学校の先生が組織する集団指導体制ができあがるのです。
 朝起きて夜寝るまでのすべての生活が、太平洋戦争の中での、1つの流れに沿って行われていくのです。湯沸かし当番は冬でも朝4時半起床。朝6:00からグラウンドにて、日の丸掲揚、君が代斉唱、東方遙拝(皇居遙拝)。
 本来年長者しか従事しなかった農作業には、男の子も女の子も、年少者もすべての望ヶ丘の子どもたちが従事したのです。この時代、日用品のなかでも特に食料品が欠乏していました。
 現在、全国の療養所には、入所者による自治会が組織され、その自治会がそれぞれの園の歴史をつづった本を出版しています。愛生園にも立派な自治会誌がありますが、この戦時の子どもたちのようすえがいた記述は欠落しています。この時代の子どもたちは、あのヒトラー時代のアウシュビッツにも匹敵するような生活だったんじゃないかと思っています。決して過言ではありません。いつも疲れ果て、やせ細って涙目をした子どもたちが、悪い足を引きずりながら重たい石を運び、さらに体を悪くし、衰えて死んでいく。
○ 「 おとっつぁん 」 との出会い −文学との出会い−
 先ほど、「愛生園に入所して、その後のわたしの生活を決定づけることが二つありました。」と申しました。1つはハーモニカですね。
 もう1つは、北野貴麿(ペンネーム)という名の寮父との出会いでした。わたしは少年舎の「白兎寮」(鳥取県が寄付したお金で建てられた寮)で暮らすようになったのですが、その寮父が広島県出身の“おとっつぁん”と呼んでいた彼だったのです。
 当時、『童謡芸術』という童謡雑誌が発行され、「おとっつぁん」もその雑誌を購入して勉強していらっしゃいましたが、わたしたちにも文章を書くようにと指導してくださいました。自由詩、綴り方などを指導してくださって、子どもたちの作品集に自分で描いた表紙をつけてまとめてくださっていました。いい作品があれば、当時の児童文芸総合雑誌であった『綴り方倶楽部』に投稿してくれるんです。選者には北原白秋もいました。よい作品として選ばれたら活字になって返ってくる。これが楽しみだったんですね。65年間の療養所生活の中で、この文芸との出会いがどれほどわたしのこころをなぐさめ、勇気づけてきたか、それははかりしれません。
○ 「 愛生園に戻ってくれ 」
 わたしは、望ヶ丘で6年間過ごしました。太平洋戦争が非常に厳しくなって、わたしは、新聞を読んだり、ラジオを聞いているうちに、このまま“らい”の汚名を被って死ぬのは耐えられない。いっそのこと兵隊になって名誉の戦死を遂げたいと思うようになっていました。当時の軍国主義教育の中で真剣にそう思うようになっていたのです。「戦死は最高の男児の本懐」であると教え込まれていましたからね。
 園に一時帰省の願いを出しました。それから3ヶ月。診察を受けて、「帰省しても大丈夫だろう」と言われました。そして父親に連絡しました。父親は、わたしの病気のことを隠して再婚し、大阪市内に居を移していました。初めて会う義母。義母は何も知らずにわたしの本名をよんで、「宏さんお帰りなさい」といいました。わたしもすぐに義母にもなれまして、それから一年間、軍需工場に働きに出ていましたが、本当に幸せな時を過ごしました。
 それから戦時下の日本にも変化が起きました。明治以来の、20歳以上の男子に対する兵役義務が19歳になったのです。園には一時帰省の延長願いを出していました。「しめた」と思って兵役検査を受けようと思いました。そのときのわたしの体は、表面的には全くと言っていいほど病気のことがわからない状態でした。しばらくして、本籍のある役場から兵役検査の通知が来ました。父親がわたしを呼んで、「宏、兵隊はあきらめてくれ。病気のことがわかったら、この家がつぶれてしまう。愛生園に帰ってくれ」というんです。大阪に帰ってからの1年間、何一つこの病気のことで苦痛を感じ、わたしに病気を意識させるものは全くなかったんです。職場の友だちも、恋人も、みんながわたしを一般社会の一人の青年として受け入れ、つきあってくれていました。 
 父親の顔を見ながら、わたしの体は震え、悲しさがこみ上げてきました。父親と義母との間にできたかわいい双子の赤ちゃんもそこにいました。その異母兄弟姉妹を見ながら、家族のことを思うと、父親に反論する言葉を失っていました。そして、「社会には何の魅力もない。愛生園に帰ろう。緑がある離れ小島の愛生園がわたしの“ふるさと”なんだ」と思いました。
○ 赤痢病棟−「患者付き添い」−
 1944年12月8日から第2の入所生活がはじまります。青年舎での生活です。精米所で働くようになり、一日に8俵くらいの麦をつくんです。そのころの愛生園の食事ですが、朝は、麦だけのおかゆに、海水を薄め菜っ葉をうかべた塩水の汁。昼は、麦粒だけのご飯(300グラム)に野菜が少し。夕食はジャガイモかサツマイモでした。
 明けて1945年。8月15日に敗戦を迎えますが、この年は結核と赤痢の蔓延も加わって、愛生園74年間の歴史の中で最悪の年となりました。年のはじめに1802名が入所していましたが、年間332名が亡くなりました。
 当時の患者作業は50種類をこえていました。土木、畜産関係から電気、水道、畳の表替え、洗濯、裁縫、ミシン・・・どれもこれも大切な仕事ですが、とりわけ医局の治療手伝いと重病棟(不自由舎棟)の患者作業は重要な作業でした。
 わたしの手元に一枚の通知書が来まして、「患者付き添い作業」という園内作業を命じられました。「患者付き添い」は、各職場から臨時に出されることが多かったのですが、わたしは赤痢病棟の看護を命じられたのです。
 赤痢病棟には金星病棟があてられ、10人部屋が二つ。もともとは外科病棟だったんですが、臨時措置として赤痢の隔離病棟になっていました。長い戦争の中で廃屋同然、ガラスは割れ、板や新聞紙が貼ってありました。一部屋3人一組で看護にあたります。わたしたちは、医者が行う医療行為(脈をとったり、注射をしたり、診察をしたり)以外の、食事、排泄(下痢)の世話などのすべてを行いました。「当直 → 休み → 助」の順番で看護を行います。当直は24時間勤務。そのあとに休みがあって、「助」は8時間勤務で当直を助けるのです。わたしたちも重病人が寝るベッドのひとつがあてがわれて、大部屋に寝泊まりします。
○ 大人になれずに死んでしまった子どもたち
 私は、少年舎でいっしょに過ごした幼ともだちの看病もしました。Sちゃんが、やせ衰えた体で、わたしに合図をするので、便器を直接おしりの下に差し込んでやりました。彼の排泄は赤痢の末期症状である血便でした。病棟は断水状態でしたので、溜水を持ってきて、やせ細ったSちゃんの体を拭きました。わたしが部屋から出て行こうとすると、彼が右手を動かして何か合図をするんです。近寄ってみるとぜいぜい言っている。自力で痰(たん)が切れないんですね。「ありがとう」と言っているようにも聞こえました。
 それから、明け方五時くらいに彼はもう、この世の人でなくなっていました。彼は一体何のためにこの世に生まれてきたのでしょうか。もう約60年ほど前の出来事ですが、亡くなったSちゃんは、たった15年間しか生きられなかったんです。
 話が少し横にそれますが、この病気には大きく分けて3つの型があります。そのうちの一つに、いわゆる「斑文らい」という型がありまが、これは後遺症を残さずに治癒するんです。わたしには妹がいますが、彼女は「斑文らい」で、2年ぐらいして自然治癒しています。日本の絶対隔離の罪は、この自然治癒する型の患者でさえ強制的に収容したということにもあります。
 わたしの記憶に、望ヶ丘で生活した子どもたちの約140名〜150名の名前と顔が浮かびます。彼らのうちの約半数が大人になり、望ヶ丘を出てそのまま園に残っています。「斑文らい」などであった約2割の人々は社会復帰し、子どもをつくって育て、一般の社会生活を送っている人たちです。あとの3割は大人になれずに死んでしまった子どもたちです。この事実が、当時のハンセン病療養所の子どもたちの実態だったんです。
○ わたしも赤痢を患い、生死をさまよった
 この赤痢病棟の患者付き添いを行ったわたしの体に変化がありました。下痢です。それからわたしは生死の世界を彷徨するんです。わたしも血便を出すようになりました。当時の薬は漢方薬だけです。多いときで下痢が50回を超えました。ベッドの横に便器が備わっていますが、ベッドを降りたりあがったりの苦痛はもう、たまったもんじゃなかったです。
 まともなご飯がないのに加えて、体力が衰えていますから飯が食えない。そして眠れない。意識がどこかに飛んでいって、ぼーっとするんです。幻聴や幻覚がおきてきます。病棟のガラス窓にわたしの顔が写る。それが父親の顔に見える。戦争から帰ってこない兄貴の顔もに見える。道一つ隔てた向こうに18歳〜20際までの女性たちが住んでいる寮があってそこに妹がいたのですが、その妹にあえないので、妹の顔も浮かぶ。庭先で鳴くコオロギや鈴虫の声が一旦耳にはいると頭の中で反響して、頭をかきむしりたくなるように大きな音となって襲ってくる。この状態が何日か続いて、「ああ、もう死ぬな」と思いました。
 しかし、やっぱり若かったからでしょう。しばらくしてよくなってきたんです。「助かった」と思いました。そして、青年寮に帰ることができたんです。「さあ、もう一度、精米所で働くぞ」と思っていましたところに、すっかりよくなっていたと思っていたハンセン病がうずき出したんです。体全体が39度、40度の高熱に襲われたのです。そして、頭の先から足の先まで全身に痛みが走る。何かでえぐり取られるように痛かったんです。地獄のどん底だと思いました。視力も落ちていきました。あのときに、赤痢病棟の付き添い作業がなければこんなことにはならなかったんだと思いました。
 それから3ヶ月ほど経って、だいぶ痛みが治まりました。「よし、はやく元気になろう」と思いました。しかし、体力が戻ってくるとまた再発するんです。この状態を年に2、3回繰り返しました。この状態が5年半ほど続いたのです。そして視力が戻らなくなり、手足も不自由になって現在のこういう体になりました。
○ 「 らい予防法 」 闘争の中で
 1950年に治療薬プロミンが全国の療養所に行き渡ってその効果を発揮し、1948(昭和23)年から1952(昭和27)年までの間に、療養所の空気が一変しました。わたしが、先ほど述べました苦しみを味わっていたのがちょうどこのときで、みんながどんどんよくなっているのに、どうしてわたしだけが苦しまなくてはならないのかと苦悩していました。
 プロミンでハンセン病が治って社会復帰した仲間は、全国でその0,2〜0,3%だと思います。治ってもなお、社会に醸成された差別・偏見は、わたしたちを受けいれてはくれなかったんです。 ならば、園内で自分たちの生活を楽しもう、生き甲斐を見つけようと宗教、政治、園芸、文芸、絵画、演劇、様々な分野でサークル活動がはじまりました。入所者自治会も全国組織の「全患協」(現在は「全療協」)をつくりました。盲人会も各療養所にできましたので、全国組織の「全国らい療養所盲人連合協議会(全盲連)」をつくりました。
 こういった動きの中の1953(昭和28)年、政府が「らい予防法」を改悪していくんです。わたしたち入所者は自治会を中心にして改悪の反対闘争をくり広げました。各園では、自治会が団体交渉や作業放棄、時にはハンガーストライキまで実施していきました。この運動が全療協の歴史の中で最も激しいものでした。愛生園では備前焼の光田園長の胸像が破壊されました。園内は、反光田派と光田派に分かれて分裂して騒乱状態でした。誰もが「一体これからどうなるんだ」と思ったことでしょう。そのころ、わたしは27歳でした。
○ 生きがいを求めて −「 青い鳥楽団 」 結成−
 そのような中で、わたしたちのような比較的若い不自由な者たちは、「これから一体何をすればいいんだ」と深い不安を覚えました。そんな空気の中から「よし、楽団をつくろう。わたしたちはわたしたちの手で楽しみを見つけようじゃないか」という声がわいてきたんです。前畑三郎さんという方がみんなを集めたんです。盲人10名と、目が見える者でも義足などの重症の障害者が集まりました。普段は自分の部屋に一人ぽつんとしていた生活でしたので、みんなが集まると、それはワイワイガヤガヤと楽団をつくる喜びで活気づいていました。
 話し合いがはじまり、わたしは少しばかり楽譜が読めるということで「楽長」になりました。ハーモニカを買わなきゃなりません。みんなが、お菓子を食べるのをやめて、封筒や便箋を買うお金でさえ節約してお小遣いを貯めて複音ハーモニカを買う約束をしました。
「ギターをやりたい」という全盲の友だちが現れました。「しめた。簡単なアンサンブルができる」と思いました。年配のおじさんが「わしはドラムをやりたい」と言ってきました。さてどうしよう、ドラムをそろえなきゃいけない。少年寮に太平洋戦争時の軍隊式ブラスバンドが使っていたドラムがあったはずだと思い出しました。太平洋戦争中から約10年が経過。子どもたちも少なくなって音楽活動もやっていない。ならば倉庫の片隅にあるに違いない。義足の竹内君が見つけてきました。
 しかし、ドラムの革がなくなっている。さあどうするか。紙を貼った。しかし、それだけでは段ボールの音のようになった。さあどうする。園内では患者作業で養豚もしていましたので、その豚油を塗った。義足の「ちょねさん」が塗りました。しかし、塗っただけではだめ。それを干さなきゃならないのです。音を出してみました。それはそれは、黙っていれば、本当の革製のドラムだと思うくらいのしっかりした音だったんです。こうして、廃物利用をしながら楽団をつくっていったんです。
 集会所の片隅で、ドラムを中心に椅子を並べて「ハの字」型に並んだんです。弱視の前畑三郎さんが「おい、羽を広げた鳥に似ているぞ」と言うんです。そうしたら、そこにいるみんなが「青い鳥だ。幸せの青い鳥だ」といいだして、自分たちの姿をそれに託したんですね。そうして名が「青い鳥楽団」となったのです。
○ 苦労の末の園外演奏会
 ハンセン病を患った者には、顔面の神経を冒された者が多いので、吹く力が足りないのです。息漏れも起こしてまう。中にはよだれが垂れる人もいる。口を口笛型にして吹くといくつかの音が同時に出ます。だから吹き方を変えなければなりません。大きくくわえるのです。舌先をあてがって、右側からひとつの音が出るようにする。そうすると伴奏音も出るようになります。
 ハーモニカのボディーを大きく口の中に入れます。そうすると口の中で共鳴をよんで、とてもきれいな音になります。これを彼らに強制したんです。彼らは一生懸命に練習しました。そして初めて練習した曲が『月の砂漠』だったのです。
楽譜も工夫しました。ドレミの音階を数字で表したり、目の見える人たちにわたしが音譜を伝えて記録してもらったり、弱視の方にも見えるように大きく毛筆で書いたり・・・。見えない人は何回も何回も暗記しました。
 しかし、将来のことを考えたら、すべてを目の見える人たちにお世話になるわけにはいかない。だから、唇と舌とで読む点字楽譜を覚えました。口が血だらけになり、何度も「もういやだ」と思いました。しかし、わたしを待っている楽団員のことを思うと、そこで諦めるわけにはいきませんでした。楽団は一生懸命に練習しました。そして、園外からも楽器を寄付していただいたりしてその形を整えていきました。
 1955(昭和30)年、長島愛生園愛生園に邑久高校新良田教室ができました。「らい予防法」闘争の結果、獲得した悲願の高校でした。そこには全国の療養所から高校生が集まっていましたので、その高校生たちが放課後に楽団に参加してくれました。そして、ギターやアコーディオンもそろった総勢23名の楽団にまで発展しました。
 最初の園外演奏に招いてくださったのは、元愛生園の精神科の医者で、大阪の茨木病院の院長をしていた高橋幸彦先生でした。しかし、当時の高島愛生園長がなかなか首を縦にふってくれませんでした。「らい予防法」が厳然と生きており、外出規定が厳しかったからです。入所者が列車に乗れば車掌から強制的に降りろと命じられた人もいた時代です。
 じゃあどうして実現したのか。看護婦さんたちの理解があったんです。特に婦長さんが高島園長に迫ったんですね。そして遂に高島園長が本音を吐いたのです。「実はバスをチャーターする金がないんだ」。わたしたちと看護婦さんたちがお金を出し合いました。そして1967(昭和42)年5月12日に、初めて園外の茨木病院で演奏会を実現させました。
○ 「 しあわせなら手をたたこう 」
 心を患っている人々の前で演奏でしたが、ハンセン病のわたしたちと結びつくものがあったのです。演奏会の最後に「しあわせなら手をたたこう」をみんなで合唱しました。これが病院の壁に反響して大合唱となって感動的でした。
 集まった者の中に一人として幸せな者がいたでしょうか。ハンセン病のわれわれも、心を患っている人々も、「あの療養所に、あの病院におった者たちではないか」と社会から差別され、偏見の矢を突き刺され、疎外されるのは同じだったんです。しかし、「しあわせなら手をたたこう」を歌っているとき、みんなこころを一つにして歌いました。高橋院長がアンコールをしてくれまして、また歌いました。
 この感動が演奏会に参加してくださった人々の感動をよびおこしまして、次から次へと園外演奏の声がかけてもらえるようになっていったのでした。翌年の1968(昭和43)年には、鶴見俊輔先生の講演と青い鳥楽団の演奏会がありました。1975(昭和50)年の10月27日には、東京有楽町で「愛と希望の音楽会」を開催。これが青い鳥楽団24年間の最後のイベントでした。
 自分の部屋の片隅に閉じこもっていた者たちが、東京での演奏会という晴れの舞台にまで登ることができたこの歴史は一体何だったのでしょうか。この歩みの中で、音楽もすばらしかったが、楽団員の生き方が何よりすばらしかったということです。血を流し、涙を流し、けんかもしたし・・・しかし人間の生のつばぜり合いの中でドラマが生まれていったんです。
○ 青春そのもの −道は必ず拓かれる−
 わたしたちは青い鳥楽団の活動を通じて達成感を感じました。テレビにまで出て、出演料ももらいました。人にできないことまでやってのけました。しかし、みんな年をとり、主要メンバーの何人かは亡くなりました。だから1976(昭和51)年に解散を決めたのです。
 わたしたち楽団員にとって、「青い鳥」は青春そのものでした。園内では最も不自由な立場にある楽団員で、何もかもゼロからの出発でした。金もない。道具もない。知識もない。誰もやっていない。そんな中で、多くの人々の援助をいただいて実に、園内演奏35回、園外演奏13回。 確かに、わたしたちはハンセン病であったが故に、行政的には残酷な人生を強いられました。しかし、被害者は必ずしも敗北者であってはならないんです。わたしは、勝利者ではなかったけれども、敗北者でもなかったという喜びを抱いています。それは、一生懸命に生きればできるんだという経験を、青い鳥楽団が支え、教えてくれたと思っています。わたしが、本日目の前にいるみなさん方に教えることができることがあるとすればただ一つ、それは逆境の中にあっても一生懸命にやれば必ず道は拓かれるということです。
○ 「 帰ってもいいのか 」
 わたしは昨年の10月29日に、ふるさとの大阪府高石市に帰ることができました。前の日に、隣接している和泉市での講演会を終えていました。この講演会に招いてくださった方々が、「近藤さん、生まれ故郷が目の前にあるんだよ」と言ってくださいました。
 しかし、父親はわたしの病気のことを隠し通して死んでいったんです。そのことを思うと、「ふるさとに帰っていいのだろうか」という思いがしてならなかったんです。ふるさとには従兄弟がいるんです。とても迷いました。けれども、ふるさとに帰りたいという思いが強かったんですね。車に乗って通り過ぎるだけでもいいじゃないかと思ったんです。
 66年間の空白は、わたしを全くの浦島太郎にしてしまっていました。わたしが昔の記憶をたどりながら、「このあたりに踏切があるんじゃないか」などといいながらそれを確かめていくんですが、主要な建物などの他は、すっかり風景が変わっていたんですね。わたしを育ててくれた高石尋常高等小学校の、校庭も校舎もすっかり変わっています。実は学校の正門の前がわたしの生家だったんですが、家並みは変わっていても、その風景を思い出したら「あの友だちが、あの先生がいたんだ」などと思い出がよぎり、涙が出てしようがなかったんです。
○ ふるさとが語りかけてくれたもの
 生家を確認する建物は、生家の隣の禅宗のお寺ですが、それも確認することができました。実は1934(昭和9)年9月21日の室戸台風で、その寺の大きな銀杏の木が倒れたんです。わたしは付き添ってくださった方にこの話をしました。すると、「近藤さん、銀杏の木があるよ」とおっしゃるんです。わたしは「そんなはずはない」と思ったんですが、2代目の銀杏の木がしっかりと立っているのです。銀杏の木は66年の間に育っていたのです。
 町の氏神の高石神社に行きました。渡来人の王仁(わに)を祭神とする神社です。思い出の鳥居がありました。この鳥居はわたしの親戚も寄進して建てられていたんです。わたしの家は貧乏で寄進することができなくて、名前は刻まれていないけれど、親戚の名前は刻まれているんです。66年間の思いを秘めてその鳥居を抱きかかえました。
 高師浜は百人一首にも出てくるとても風光明媚な浜です。現在は臨海工業地帯になって、最近では関西空港までできているので、昔の面影はなく、少し悲しかったですね。昔はすばらしい田園地帯だったんですが、それもすっかりなくなっている。
 ふるさとはわたしに何を語りかけたのでしょうか。詩人は「ふるさとは遠くにありておもうもの」と言いますが、ふるさとに立ってみると、懐かしい光景が次々に蘇ってきました。
 ハンセン病を患ったことで隔てられていたふるさと。しかし、もうそろそろ勇気を出して、自分でふるさとをとり戻さなければならないと思うようになってきました。

*お話の合間に、美しい音色のハーモニカ演奏を入れてくださいました。参加者一同、感動し、感謝の気持ちで一杯になりました。

♪ふるさと♪
一 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと
二 如何にいます父母 恙なしや友がき 雨に風につけても 思い出ずるふるさと
三 志をはたして いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと
                                 
「 まとめ 」 担当 : 延 和聰


学習会3 園内フィールドワーク ( 歴史資料館の見学を含みます )
案内 : 宇佐美 治 ( 歴史資料館責任者 ) さん  金 泰九さん


 まず、私たちが宿泊した、面会宿泊所(略:面宿)「しんじゅ荘」の玄関先に立ちました。
 私はここ愛生園に10回位来ていますが、この面宿の「しんじゅ荘」を“真珠荘”だと今日までずっと思っていました。実は「神樹 (しんじゅ) 荘」ということでした。
 「神樹 (しんじゅ) の木は“神の木”と言われてね。以前はこのあたりにたくさんあったんだよ」との金泰九さんの説明。“神の木”が心にひかかりました。後で調べると“天まで至る木=神にとどく木”という意味で、“生命力が強くすくすくと成長し、どのような環境の中でも逞しく育つ木。”だそうです。この「神樹(しんじゅ)」の名の中に入所者の方々がどれほどの願いや祈りを託されたかと、しばし思いを馳せました。

 最初に向ったのは、島の南中央にある坂道「一朗道」です。
 “久保田一朗(具奉守 (ぐぽんすー) )さんは1932年に入園し、土木部主任として園内の宅地造成や道路工事に大きく貢献された方だそうです。彼を中心に切り開かれた道路はその功績を称え「一朗道」と名づけられたということです。ここまでの話しは私も知っていました・・・。
 金泰九さんの説明によりますと、「久保田さんは韓国の方で、本名は具奉守(ぐぽんすー)。当時、子どもたちは少年少女舎からこの山道を通って医局に通っていた。子どもたちにとってはとてもきつい山越えだった。かわいそうに思った具奉守(ぐぽんすー)さんは3年間かけて、この道を作った。しかし、厳しい作業で病気が悪化、入水自殺をした。その死を悼んで光田健輔園長が碑を建てた。 自分としては、“具奉守(ぐぽんすー)”という本名で建てられた碑だったらよいのに、残念だ」とおっしゃっていました。私は今まで何回もこの「一朗道」の説明は聞きましたが、在日の方の説明は初めてでした。日本人の入所者の方の説明と、立場が変われば説明も願いも変わることを、今さらながら感じました。相手の立場に立って・・・と、いくら思っても・・・、今まで知っていたつもり、わかったつもり、の自分を深く反省しました。

 次に向ったのは、「邑久高等学校新良田(にいらだ)教室」跡です。
 1953年の「らい予防法」改正に伴い、1955年9月に開校。全寮制。定時制普通科課程の4年制で、1学年の定員30名。全国のハンセン病療養所の中で唯一の入所者のための高等学校で、全国の療養所から入試を受けて入学されたということです。閉校までの32年間で卒業生は307名。閉校時の1987年3月に「希望の碑」が建てられました。
この碑の前で、金泰九さんの音頭により教育部会の参加者全員で、碑文を唱和しました。ここに碑文を記しますので、皆さんも声を出して読んでみてください。
 希望の碑
 人間回復をめざして展開された全患協のらい予防法改正運動の結果 1955年9月16日 此地に岡山県立邑久高等学 校新良田教室が開校された 以来三十有余年 病苦と闘いつつも人間らしく生きたいとねがい 社会復帰をめざして 研学 不抜 心身の鍛練に励んだ若者は 397名 新良田教室 それは ここに学んだわれわれの青春と栄光のシンボルである この希望の碑は 閉校記念として 同窓生の永遠の心の絆となるよう建立されたものである                              
1987年3月3日 新良田教室同窓会
 次に向ったのは、島の北西の萬霊山(ばんれいさん)の「納骨堂」です。
 現在の納骨堂は、2002年に更新築されたものです。この中には死んでもなお故郷に帰ることのできない約3500柱もの遺骨が眠っておられるとのことです。
 ただ手を合わせ、“ハンセン病の偏見と差別をなくするよう、自分なりにがんばります”と、ご冥福をお祈りすることしかできませんでした。
 納骨堂を後にし、見晴らしのよい高台の「恵の鐘」がある光ヶ丘に着きました。教育部会のメンバーはそれぞれ、瀬戸内のおだやかで美しい海の眺めとはうらはらの愛生園の苦節の歴史を思いながら、「恵の鐘」を力いっぱい打ち、あたりに響かせました。
 この場所は1936年、入所者の処遇の改善を求めたハンスト「長島事件」の舞台になった場所であり、初代の「恵の鐘」は乱打されひび割れたということです。

 最後は歴史資料館での学習です。案内をしていただいたのは宇佐美治さんですが、視力がだんだんと弱っておられるとは思えない、“すべてが見えている”と思える、お話しや案内説明にまずは、驚かされました。
 ツタがからまり長い歴史を感じさせる外壁とは反対に、一歩中に入ると明るく近代的な施設になっています。
整然と陳列されたハンセン病関連の資料や見やすいパネル・写真など。ここをじっくり見れば、ハンセン病の歴史や長島愛生園が辿った形跡などがわかります。
 しかし、ガラスケースの中にあまりにもきれいに並べてあるので、手に取ったり、さわったり、感じたりする物がもう少しあったらと、自分勝手な思いも・・・。
 園内全体を通して感じたことは、現在はあまりにもきれいに整備されているため、人として生きることができなかった強制絶対隔離の重い歴史があったことが、どこかに忘れられているような気がしました。
 
「 まとめ 」 担当 : 福安 和子

学習会4 聞き取り学習
長島愛生園入所者 田村 保男さん(邑久高校 新良田教室1期生) 「 邑久高校 新良田教室の生活 」


 現在74歳。長島愛生園には52年間いる。一般舎での生活だが、昨年大病をやり言語が不自由だ。出身は、山口県秋吉町。8人兄弟だ。母親は病気ではなく元気だったが、父親が病気(ハンセン病)になった。父は、昭和16(1941)年に長島愛生園に入所した。子どもが小さいからといって、1年もせずにすぐ帰ってきたが、その後どのように暮したのかは分からない。昭和18年か19年ごろに死亡した。帰省できたのは、父が信仰家のため、お坊さんの力で一時帰省できたのだろう。馬鈴薯を作り、「はよう食わせ、食わせ」といっていた思い出がある。死んだとき、伝染病だから火葬だということだったが、火葬場がなく、田んぼの池の横で火葬することを部落の人で決定し火葬した。よその家を借りて行った。村八分というより村十分の状況だった。二分は冠婚葬祭だが、棺を持つ人もいなかった。

 尋常小学校2年のときに敗戦となった。田舎だったために、小さいころから苦労をした。でも、私は楽天家で、人の言うことを聞かなかったりしていた。軍人で結核を患ってきた人の家の前を通るときなどは、鼻をつまんで走っていったものだ。それが、今度は逆の立場になってしまった。
 学校でも差別された。目が悪かったのに、教室では後ろの席でひとりだった。私は中学を卒業するころに発病した。新制中学の3年のころだった。私は腕白で、力で押さえつけていたが、「さわるな」「おまえと相撲はとらん」「道具はいっしょに使わさん」などといわれた。その時の保護者のうごきはよくわからない。私の先生は桑田先生。その先生は差別しなかったが、差別はむしろ生徒間のほうが強かった。しかし、教員の接し方は、それへのフォローはなかった。

 妹が新制中学1年のとき、友達が妹に手紙をもってきた。その茶封筒の中には、先生から「学校に来なくていい」と書いてあった。妹が休んだ日に、学級会(教室・HR)で話し合ったようだ。その友達は先生からことづかってきた。妹は中学を卒業することができなかった。妹はかなり差別された。病気だから勺を手で握れないと、人糞の汲み取り作業も手でやらされた。この前、その妹から電話があり、2、3年前にあの学校の先生がなくなったと伝えてきた。
 妹は発病していない。らい家族だから終戦後も苦労した。今、71歳。私と3つちがいだ。義務教育の時代にもかかわらず、妹は中学3年で「卒業」にはなっていたが、卒業証書はもらっていない。もしかしたら発行していないのかも。それについては、訴えたほうがいいと思ったが、母親は親戚などに迷惑がかかるといって思いとどまった。泣き寝入りすることになったのだ。妹は、その先生が死んだことをずっと覚えているくらい、妹にとっては、きつい思い出だったのだろう。

 昭和27年、22歳のとき、姉も発病した。私は姉と一緒に入園した。母がよく面会に来てくれた。しかし、支えてくれる人も助けてくれる人もなかった。姉は今も元気だ。あまり後遺症もない。一旦嫁いだが発病して離婚し、長島に戻ってきた。姉の娘は「向こう側」にいる。「病気の子はいらん」と言われたようだ。祖母が山口で育てた。姉の娘は、倉敷に集団就職できて、紡績関係の仕事をしていた。近いため、「どこでどう人に会うかわからん」から、あまり会いに来なかった。今、その娘は岡山にいる。もう60歳になった。正月になると母親である私の姉のところに会いに来るが、ほとんどは姉が岡山に行って会っている。語ろうとはしないし、独身で通している。「親が病気だから」と言っていた。こちらにはあまり来ないが、最近はこちらにも来るようになった。
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 昭和27年に青年舎に入って、午前中は購買部で仕事をしていた。高校ができるということで、「いい機会」だと思って予備校に通った。「欲があった」ね。23歳で現役中学生でないだけに「めちゃくちゃ勉強したよ」。予備校は朝からで、愛生学園のなかで勉強した。予備校で教えてくれたのは魚返先生だ。千葉先生など愛生学園の先生にも習った。職員も3人くらいいた。魚返先生のことを悪く言う人はいないね。午後は休みで何もすることがなく、我先にと帰ってマージャンをしていた。

 高校入試は岡山県教育委員会が行った。初年度は、入学が9月なので1学期分を6時間授業で補習した。そのため、体はきつかった。休み時間は草取りばかりだったので「草取り学校」と言っていた。30人中10人が愛生園出身の人だった。入学は9月だったが、消毒してから入らされた。入試のときは、「鉛筆の芯が2回くらい折れた。力が入っていたんだね」。
 高校の合格発表は封書で通知が来た。愛生園は11人中10人が合格し、一人は現役の中学生だった。現役とは青年舎で暮らした愛生園の中学生。10人は一般舎でみな青年だった。現役生の親からは「あなたは世話人の方ですか」と言われた。一期生は30人で卒業したのは25人。男が22人で女が3人だ。そのうち、一人が自殺した。藤田といって、大阪に就職していたが、社会復帰が難しく、また恋愛関係でも思いつめていたようだ。彼には兄弟がいたが家には帰れなかった。遺書もなく、詳しくはわからない。

 あの頃の愛生は「遅れていた」。他の園から来た生徒は不満を抱いていた。規則が厳しかったからだ。外出もだめで、光明園へすら行けなかった。途中には検問所があったので、おとりで職員に話しかけて光明園に行った。お盆のときは踊りに行くということや知り合いがいるから光明園に行くとの理由で通してくれた。

 藤楓協会から高校生にボートが2台寄贈されたことがあった。ボートで他の島へ行けない規制について、なぜだと言っても教師からの返答はなかった。看護婦が「ボートに乗らせて」と手を振っていたことがあった。営繕?から監視されていて、学校から謹慎処分を受けたこともある。

 唯一楽しかったことは、邑久光明園と大島青松園の自治会が年に一度、高校生を招待してくれたことかな。空腹だったしね。ステーキを食べられた。交流だね。おそらく、愛生園にばかり負担をかけられないというのがあったのだろう。園に帰る船では、先生たちは私たちに気を使ってくれていたが、後に先生もカレイのしゃぶしゃぶ?を食べられるようになった。
 映画は月に4、5回あった。場所は教会のところにある愛生会館だった。学園祭では演劇をやった。

 高校生は、ほとんど治療がなかったが、午前中は授業で、休みの合間が治療時間で分室に行った。仮病を使って学校をサボったこともあったが、すぐばれたね。成人はタバコOKだった。未成年はまったく吸わずによくがまんしていた。

 各療養所でひとり500円の補助があった。服は4年間一着で通した。学生服は園から支給された。女子はセーラー服だった。徽章も本校(邑久高校)と同じだった。高校は全寮制だった。高校だけでなく、園内にも若い人が多かったので、当時は野球、バドミントン、バレーボール、卓球などのスポーツ交流が盛んで、運動会もにぎやかだった。100人くらいは若い人がいたのではないか。バレーボールでは、本校生も来てくれたが、我々の目の前でこれ見よがしにみんな手を洗い消毒していた。卒業式には、県、町長、教育長がきた。

 愛生園に入ってびっくりしたことは、入園時にハムが出たこと。松茸やすき焼きも。しかし、高校じゃあひどい目にあった。予算が同じだったから腹が減ってしかたなかった。寮長をしていたので、もっと食事の量を増やしてくれるよう交渉をしに行った。誰が食べるか知らんけど、炊事にはボールにジャムや食パンがあった。料理が入っていたドラム缶を一度落としてしまい、散々な目にあったこともある。腹が減って寝られず、農作物やスイカやイチジク泥棒がおり、それで退学になった人もいた。

 年に何度か、炊事場からぶどうが出た。当時は、一般入園者でもお酒は禁止されていたが、みなよくぶどう酒を造った。職員に見つからないように押入れに隠した。「何か匂うぞ!」と言われると、「いや、果樹です」と。でも発酵して蓋が「ポンッ」と抜け、ふとんが汚れてばれてしまい没収された。職員は、「おい、おれにも一杯飲ませて」と。「たまらん、うまかったね」。禁止されていたのは、酒、薬の類。ぶどうを注文し入荷する。食べるには多すぎるが、砂糖の配給をうけて作った。「スリル」があったよ。正月ごろになるとうまくなる。ぶどう酒ににおいを消すために、部屋でばんばんタバコを吸ったな。
 正月は一般舎めぐりをやった。私たちは一般舎で空腹を満たしていたんだ。出身県の一般舎へ入っていくと、若い人が来たと喜んでくれる。それぞれ得意先があった。子どもがいないからかわいがられた。相手も分かった上で食べ物をくれた。みんな一般舎の人に助けられた。いまだにお世話になったといって行っている。
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 生徒は教員室には入れず、教師が教員室から出てくるときはモールス信号を聞いてから出てくる。クレゾール洗面器が二つあったが、教師がお札の消毒をすることについては、「そうするもんだ」と思っていた。教師の白衣着用は義務で、夏暑くても消毒衣を着てマスクをしていた。園から言われていたからだが、暑いときは帽子やマスクをはずしている教師もいた。園側の人が来るとつけるという感じだった。高島園長は、生徒の前でも話をしてくれる先生だったが、園長が来る時は皆白衣だった。園長はスーツのままで、汚いコートを着ていた。

 先生と相撲をとったのが語り草になっている。相撲をとった先生は東原(ひがしはら)先生。体育の先生でタバコはピースを吸っていた。自分たちはバットだった。ピースはいい匂いがしたね。修学旅行の実現はだいぶ後になってからだ。香原先生はいい先生だったね。邑久に住んでいて、今も年賀状のやりとりしている。インタビューも可能だろう。そのほか印象深い授業は、数学の高橋先生。「ええ先生」だった。問題集は自分で作った資料で、英語で書かれていた。生徒がどんどん質問するので、先生も予習をしていた。
 いい先生、志を高くもった先生はいたよ。熱心な先生は休み時間もなかったほどだった。故・石黒先生も最初から差別をしない先生だった。農大を出て、ここの先生をやりたいと埼玉から来た人だった。来たときは開校前だったので、開校するまでは福祉課で働いていた。若い先生は、県の教育委員会から来た人とは違ったね。高橋先生は高校の先生なのに、早く風呂に入ったとの口実で辞職することになった。教員より職員のほうが、力があった。いい先生は辞めていってしまった。園がやかましいのだ。上からの制限があったようだ。また、教育委員会から無理やり言われ、いやいや新良田に来ている教員との兼ね合いもあって、熱心な先生はやりにくかったのだろう。主事(分校長)が悪い。まじめで融通がきかないし、上に弱かった。

 卒業後に職員室に行くと、先生から「入ってこい。コーヒー飲まんか」と言われ、「時代が変わったなあ」と思った。昭和40年代のころだ。ベル制の廃止が1973年1月、職員室への出入り自由が1974年のことだ。

 同窓会での話だが、ある先生が、卒業後に会ったときに、「当時は言わなかったのだけれど、当時体にできもの(湿疹)が出来たので、診てもらったら結果はどうということはなかった。でも、うつっているのではないかと不安に思っていたんだよ」と言ってくれた。

 担任は私より年下だった。先生は年下には〜君、年上には〜さんと言っていた。保健体育などの高校の授業では、ハンセン病のことを教師から教わるというより、「ハンセンのことはこっちが教えてやったよ」。先生とは年も同じくらいだったから、ワイワイ楽しかったし、いっしょに草取りもやった。教員からの暴力はなかったね。手をふれるというより、逆に教師の方がやられるから。教員よりも生徒のほうが年齢も上だし、むしろ大人だから口で議論することができた。

 高卒ということで、園内でも一目を置かれた。新良田の卒業生に対しては一種の憧れがあったし「期待されとった」。それに、高校があった頃は、愛生園には活気があった。若い人が多かったからね。夢を語り合ったり、みな交流があったよ。森元さんや冬さんとも仲が良かった。冬さんの思い出というと、国語の先生が授業の途中で教壇を降りて、「冬!お前がやれ」ということがあった。高校のときから面白い人で、小説を書いていた。変わった人が多かったよ。新良田教室の生徒も10期までは優秀だったが、それ以降は全入時代になるので「ボンクラ」だ。生徒数が減っていくと、教師が書く療養所に出かけていって、子どもたちに新良田に来るようスカウトに行っていた。

 就職については、教師からの指導はなかった。一期生には、卒業前に大阪の貿易会社の人が来た。そこに就職した人はいなかったが、当時は神武景気の頃で、人手が足らなかったからだろう。一期生にはこの頃の就職の波に乗った人が多かった。社会復帰をしても、後遺症がある人はそれを隠せないし、公にして生きていくしかない。内緒にすることが出来ない。新良田の卒業生には会社員や自営業が多いし医者もいる。私は後遺症があり園に残った。盲人会の世話係として37年間、自治会に関わり代筆などをやった。5年前に妻がなくなった。40年の結婚生活だった。

 高校の設備は国が管轄していたが、当時は、職員への危険手当が8万円出ていた。だから、職員もいやいや園に来ても仕事を止められない。園内の理髪店の人は公務員で、どこかの店の人ではない。でも、危険手当は今もなく、危険手当であるかどうかではなく格差が設けられていることに怒っている。差別待遇は予防法後も続いている。

 苦しかったことは、「病気が騒いだこと」。高校一年のときで、2ヶ月くらい入院した。べつにそんなにうれしかったことはないが、「無事に卒業できたこと」かな。そして「入学できたこと」。それと、稲刈りが唯一の楽しみだった。農家に行くと大きいおにぎりが食べられるからだ。「ハングリーばっかりで大きくなった」。昭和一桁は栄養が足りないから。

 子どものときは、腕力で通用するもんだと思っていた。今で言えばワルで、一目置かれていた。子どもどうしには差別がなかった。担任の先生は戦争に召集されたが、そのとき先生が「喧嘩したらいかんぞ」と私に言った。でも喧嘩したために、校長室前の廊下に座らされたこともあった。新良田では喧嘩はなかった。

 卒業したらなってみたかったことは、鉄道が好きだったので国鉄の会社に勤めたかった。子どものときからの夢だ。小学校に入ってからは軍人になりたかった。秋吉台は演習地だったため軍人がいた。しかし、軍人がビンタでたたいているのを見た。また、ある時、兵隊が川で飯盒を洗っていて蓋が流れてしまった。そのとき、上官が長靴でバーンと蹴った。生徒の前で。こんな怖いことはいかんと思った。愛生少年団、少年少女団では、朝から晩まで竹やりの訓練、ビンタもあった。軍人のものを学校に持ち込んできた時代だった。

 同窓会は、最近は牛窓でやっている。社会復帰者で、今も面会に来る人もいる。校歌は卒業にあわせて作曲され、作曲は三期生が行った。私が持っていた校歌のテープは青森(松丘)に貸したが戻ってきてないな。

【 備考 】 当日の話は、大まかな内容に整理しまとめた。よって、当日話した順序とは多少入れ替わっている。妹さんの卒業証書は発行させられるのか。妹さん本人への聞き取りは可能か(遺族・家族の会との連携)。各療養所の派遣教師の待遇(給与、手当て等)や教育委員会・各自治体との関係についての調査が今後の課題である。
「 まとめ 」 担当 : 江連 恭弘

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