教育部会
5月14日午後:第2回総会(報告)2
(※一部、敬称略)
研究報告/「教師の『加害者性』を考える」
発表者:佐久間建/東京都東村山市立野火止小学校・現上越教育大学大学院教科領域教育専攻社会系コース
「近現代日本ハンセン病史」における現在は歴史的転換期にあるといえます。政府の施策が180度転換した今日、ハンセン病に関わる人権教育と啓発が求められるようになりました。例えば、『わたしたちにできること』(厚生労働省発行)というハンセン病啓発冊子が全国すべての中学生に配布されました。しかし厚労省主催の第1回ハンセン病シンポジウム(2005年3月)で、シンポジストの平沢保治氏(多磨全生園自治会長・当時)は「厚労省から発行しておりますこのリーフレット、残念ながら現場ではこのリーフレットが大半が活用されていない、こういう実態にもぶつかりました。そこで私は関係者に要望しておきます。子供たちに私たちがハンセン病の実態を学ばせる前に、…(中略)ぜひハンセン病の実態を語れる先生方を育成してほしい、このことなくしていくら書類をいろいろ送ったとしても、それはこういうものがあった、読みなさいと言って子供たちに渡したとしてもそれはなかなか受入れられない。」と指摘しています。
政府がハンセン病への過ちの再発防止のため組織したハンセン病問題検証会議の最終報告書が2005年3月に提出されましたが、そこでは、医学医療界・法曹界・福祉界・宗教界と並んで「教育界の責任」が一節に充てられています。教育行政も民間教育運動も、私たちの先輩教師も現在の教師である私たちも、等しく日本近現代史の中でハンセン病を患う人々に対して誤った態度をとり続けてきました。
しかし、今日の私たち教師は、未だにハンセン病史において教師が犯した過ちを自ら検証することなく、政府や厚労省の方針の転換に従い、人権教育啓発法に従い、ようやくハンセン病に関わる人権教育実践の端緒についた段階にいます。反省・総括のないうちに「上からの人権教育」に従うだけならば、私たち現在の教師も、隔離主義時代の教師と同じ構造の中にあるといえるのではないでしょうか。教育界と教師の歴史的な過ちを検証し総括した上で、人権教育実践に取り組むべきではないか、というのが私たちハンセン病市民学会教育部会が共有する問題意識です。
私たちはハンセン病教育史における"負の経験"を、今日の教育に生かしていくべきだと考えます。そして、この"負の経験"とは、過酷な人権状況に置かれた「子ども」の経験だけでなく、その状況に無力であり加害者でもあった「教師」の経験の両方を指すと思います。「教師」の"負の経験"とは、「子ども」を含むハンセン病者の人権被害に対する「教育界の責任」であり、より明確には「教師の加害者性」といえるでしょう。
ハンセン病市民学会教育部会の第一歩として、「教師の加害者性」をいくつか例示します。今後検証すべき課題を明らかにするためのたたき台にしていただきたいと思います。
2.教育界の責任=「教師の加害者性」とは?
(1)らい予防法のもとで教師は、学校の身体検査・健康診断などで「らい」の子を見つけて警察・保健所に通報し、療養所に送り込んだ。
学校の定期健康診断で発病を発見・通報され、療養所入所に至った例も少なくはない。多磨全生園のA氏もその1人である。1941年、校医の指摘で専門医が来校して診断した翌日、担任教師から「明日から学校に来なくてよい」と皆の前で言われ、「先生をうらみましたよ、そりゃしばらくは」という思いを述べている。(2006聞き取り)1943年、多磨全生園のB氏も「12歳のとき、学校の身体検査でらいと告知される。まわりには、ともだちが、先生がいた」(2005坂田)そうである。1940制作の映画『小島の春』(豊田四郎監督)でも、学校での集団検診で愛生園医官の小川正子が「ハンセン病の子ども」を発見しようとした場面を見ることができる。→資料 修身教科書での「衛生」の記述。その教師用書では「らい」の症状と隔離の重要性が詳述されている。
(2)送り込まれた子どもたちは過酷な人権状況に置かれた。人間的発達の保障が阻害されただけでなく、命すら奪われた。
例えば、全生学園に学んだ故・冬敏之氏は、著書の中で多磨全生園時代にあったいじめの実例とその結果による兄の精神病棟での凍死を記録し、少年たちのストレスと心的外傷の強さを述べている。療養所内の「患者教師」には限界があった。→資料 「冬敏之氏意見陳述」「谺雄二氏意見陳述」
→資料 「北条民雄『望郷歌』における療養所の教育観」
とりわけ戦時下は生活物資の欠乏とともに子どもたちにも重労働が課せられるようになり、「薪の運搬、田植え、ため池工事や望が丘の土地の開墾などによって、体に傷を負ったり、障害をさらに悪く・重くする子どもが出るようになった」(2004ハンセン病検証会議証言・池内謙次郎氏)だけでなく、「子どもたちが昭和16年頃からばたばた死んでいった」(2005長島愛生園C氏)という証言がある。実際、長島愛生園では1945年には入所者1802名のうちに近い332名(約18.5%)もの方々が亡くなっている。宮古南静園でも「餓死した子もここにはいるんです。これが私には一番忘れられない」(2000みやこ・あんなの会)という証言があるが、南静園・愛楽園の戦時下の被害は特に甚大であった。
(3)療養所に送り込んだ教え子に、手紙や面会で接触を保とうとする教師は(ほとんど)いなかった。
私の聞き取り調査では、小中学生時代に発病した「子ども」に対して担任教師や校長らがどのような働きかけをしたかを必ず尋ねている。今まで調査した方35名のうち、担任教師が親身になって励ましてくれたり療養所へ手紙を送ってきたりした例は一例もない。(4)発病がわかった子どもや、親や兄弟が発病した子どもに対し、学校においていじめを見逃し、教師も差別に加担した。
例えば、長島愛生園のA氏からの聞き取りによると、「昭和23年頃の話」として、家族の発病が周囲に知られた妹さんが担任から登校を拒否された事実を述べている。以下に要約する。中学3年生の2学期に妹さんがたまたま欠席すると、クラスの子どもが担任から預かった茶封筒入りの手紙をもってきた。そこには「登校しなくてよい」と書かれていた。妹さんはその後一日も通学できず、卒業証書ももらえなかった。妹さんはその後も発病していない。また、宮古南静園の『創立70周年記念誌』(2001)によれば、元宮古南静園のB氏のお子さんは、学校で「クンチャーの子」という差別語で呼ばれていじめられた。しかし、教師はB氏が抗議するまで、教室で息子さんの座席を皆から離して別にしていた。
(5)戦前・戦中の療養所の中の教育は、「学校」ではない私的教育機関であり、劣悪な教育環境におかれた。ハンセン病の子を教育から切り捨てたことに対し、教師は何もなさなかった。
無癩県運動の盛んになった1930年代には強制収容者数が大幅に増え、少年少女舎も増築され、「学園」と呼ばれる校舎が建てられるようになった。「担任教師は患者中ヨリ嘗テ教職ニ經驗アルモノヲ選抜」(1931『全生學園規程』)することを原則にするなど、「学校らしい体裁も整えてきた」(『全患協運動史』)ものの依然劣悪な教育環境に置かれ、「教材費などの予算は皆無で、全体の物品費などから捻出している状態で、国も施設も入所児童に対して、正規の教育を受けさせることなど念頭になく、専門的な分野の授業は到底望むべくもなかった」(2001『復権への日月』全療協編)のである。全生学園元「患者教師」のD氏も「予算もほとんどなくて教科書も与えてあげられないのがくやしかった」(2001聞き取り)と述べている。また、「学校でない、教育機関でもないということで、修了証や卒業証書などの公的なものが授与されず、社会に帰ったとき、その間に、何をしていたか、未就学児として進学するにしても就職するにしても大変な困難を生じた」(2006『多磨5月号』三芳晃)という問題があった。(6)戦後になっても、ほとんどの療養所では3〜9年間は教育を受ける権利が保障されなかった。ハンセン病の子を教育から切り捨てたことに対し、教師は何もなさなかった。
多くは近隣小中学校の「分校」または「分教室」であった。沖縄愛楽園、宮古南静園は近隣校と地元の理解が得られにくかったため、「琉球政府立」として発足。『沖縄県ハンセン病証言集資料編』には、沖縄愛楽園澄井小中学校が公認校になった喜び「開校に寄せて」(1951)が載せられている。(7)1955年に長島愛生園内に高校(分教室)ができるまで、「ハンセン病の子ども」は高校に進学することができなかった。療養所内の高校設立は「患者運動」の成果であり、教師はなにもなさなかった。
戦後、特効薬も開発された時代だが、教師は白衣で教壇に立ち、職員室前には消毒液と消毒箱が置かれた。職員室は無菌地帯なので消毒した物以外持ち込めなかった。職員室の教師に用がある生徒は、モーリス信号によるベルで各教師を呼び出した。「ベル制」は生徒と教師の間の溝の象徴であった。(8)戦後の「分校」「分教室」時代、子どもたちから感染する可能性がなかったにもかかわらず、ハンセン病の子の教育にあたった教師(派遣教師)は、白衣を着て子どもたちに接し物品を消毒するなどして、真に人間として交わろうとせず子どもたちを傷つけた。
「分校」「分教室」での教育をすべて否定するものでない。すぐれた部分の実践記録から私たちは大いに学ぶべきである。例えば、元全生分教室教諭・鈴木敏子氏の『らい学級の記録』『書かれなくともよかった記録』、恵楓園分校元教諭・藤本フサコ氏の『忘れえぬこどもたち・ハンセン病療養所の片隅で』など。同時に当時の教師の限界と誤謬もみとらねばならない。→資料 『書かれなくともよかった記録-「らい病」だった子らとの十六年-』鈴木敏子(2000私家版)より
(9)「本校」の教師たちは、「分校」「分教室」の子どもたちに対し何の働きかけもしなかったし、差別することさえあった。
例えば、元患者教師の天野秋一氏は「生徒は勉強もよくやり、よくできたが、本校では点数をくれませんでした。」(2002講演)と述べている。これは全生園の中学生は一般の高校受験をしないので、内申点を低くしてその分、本校の生徒を底上げしたという意味である。また、派遣教師だった鈴木敏子氏は、指導主事の指示によって本校の校長が、「全生園の子どもの作文は暗い」という理由で本校の文集から削除したことに抗議したという記録を残しています。(『書かれなくともよかった記録』)(10)黒髪小「未感染児童」通学拒否事件において、教師・教育界は傍観者でしかなく差別に加担した。
戦後教育史に残る大きな教育差別事件であるにもかかわらず、教職員組合、教育運動団体、教育研究団体、教育学会などのいずれもがこの事件を反省・総括していない。→資料 1954年竜田寮「未感染児童」通学拒否事件(黒髪小事件)について(1977年発行『全患協運動史』より抜粋)
→資料 黒髪小事件にみる「教師」の立場 熊本市教組の呼びかけ文など(『ハンセン病問題史料集成』より)
(11)戦後、ハンセン病が治癒して伝染性のないにもかかわらず、療養所出身の生徒に対する入学拒否事件(高校、盲学校)があり、生徒の一生に大きな被害を与えた。
『生き抜いた!』(2003高波淳)、『ハンセン病回復者手記』(1999沖縄楓の友の会)によると、例えば1959年に県立高校の入学試験において、愛楽園出身生徒が入学拒否されている。直接、高校の校長に「受け入れない理由は何か教えてください」と訴えたA氏に対し、校長は「天刑病です」と答えた。この高校では翌年もハンセン病回復者の生徒を入学拒否した。(12)戦前戦後を問わず、一般校での教師たちは、一般の子どもたちに対して、「らい」「ハンセン病」について誤った知識を与えた。
戦前の修身「衛生」、戦後の中学・高校の保健教科書の誤った記述、岡山の小川正子についての道徳教材の不適切な表現など。A市の教師の差別発言事件など、教師からハンセン病について「怖い病気」であると聞かされた人は多い。→資料 「らい」に関する中学・高校の保健教科書の記述 高校生の「らい」に関する意識調査(『全患協運動史』より)
→資料 岡山道徳教材「限られた命を生き抜くために」の表現の誤り、偏見
(13)戦前戦後を問わず、ハンセン病療養所の付近の学校では学区域において療養所への差別状況が目に見えてあったにも関わらず、療養所との交流やハンセン病問題の学習を実施することはまれであった。
かつての療養所付近の一般の子どもたちはどのようにハンセン病者をみていたのだろうか。多磨全生園の大正期を綴った故・桜沢房義氏著の『全生今昔』によると、1919年(大正8年)に桜沢氏が入所する際に東村山駅から療養所へ歩いて向かう途中、「子供が四、五人遊んでいたが、私たちを見かけると『アア、クサリボウ』と囃したてた」という差別の事例を紹介している。戦前においては療養所と地域の学校が交流した例はほとんどないが、多磨全生園の場合、唯一例外的に1914年(大正13年)2月16日に「化成小学校生徒八○人来院、礼拝堂で童謡、遊戯を見せてくれる」(1979『倶会一処・患者が綴る全生園七十年誌』)という記録がある。この80人の中の一人が後に民衆史家として「人権と民主主義を守る民衆史掘りおこし北海道連絡会」などで活躍した故・小池喜孝氏である。小池氏はその「患者慰問」が「私の一生涯に強い影響を与えた」(2002佐久間への私信)と述べ、「少年時の記憶、民衆史運動の原点に」(2002.2北海道新聞・夕刊連載1回目)という記事を書いている。小学校1年生でのたった一度の療養所訪問が、小池氏をして「埋もれた民衆の復権と、住民の人権意識を掘り起こす営み」(2003北見市史編纂ニュースNo62)を生涯貫かしめた原点となったことは、今後の人権教育を考える上でも極めて重要な事例といえるだろう。
→資料 大島青松園の職員の子として島に育ち、後に母校の校長になった奥村学氏(ハンセン病を正しく語り継ぐ会)の文章
(14)ハンセン病に関する人権教育やハンセン病療養所の入所者との交流活動は、らい予防法以前はほとんどなされなかった。予防法廃止後も教育実践は広がらず、ハンセン病に関わる教育が徐々に広まるのは2001年の国賠訴訟判決以後である。
鹿児島県の小・中・高校の教師たちをネットワーク化し、ハンセン病に関する授業を推進した鹿児島大学の梅野正信氏は次のように述べている。「いまだ一部の教師、一部の人々ではあるが、それでさえも学校教育の中でこの問題を取り上げる必要が強く自覚されるようになるのは、平成8年(らい予防の廃止)ではなく、平成10年(提訴)でもなく、平成13年であった。廃止法以前にも、廃止法と付帯決議(平成8年)が成されてからも、さらには裁判が提訴されても、多くの教師はこの問題に取り組まなかった。私たちが取り組む直接的契機は、平成13年の判決によっているという事実は、とりつくろうことなく、深い反省とともに自覚しなければならないだろう」
→資料 『実践ハンセン病の授業 -「判決文」を徹底活用』(2002梅野正信・釆女博文)
(15)予防法廃止、ハンセン病裁判後も、ハンセン病に関する人権教育は十分とは言えず、いっそうの推進と充実が求められている。
教科書にもハンセン病問題が取り上げられるようになり、療養所の地域の小中学校も交流と学習に取り組み始めるようになった。しかし、全国の中学生に配られた啓発パンフ『私たちにできること』は「配っただけ」の例が多いと聞く。自治体発行の啓発誌は主に厚生関係部局が作成しており、教師や教育委員会は関与していない場合がほとんどである。→資料 ハンセン病療養所がある自治体の小中学校への教育アンケートと結果 (2006年3月実施 385校 回答率約60%)
→資料 香川県啓発誌『ハンセン病を知っていますか』(香川県薬務部感染症予防課発行)
(16)上記の過ちと加害責任に対し、教師・教師の団体、及び教育行政は何の総括もしていない。
法曹界、宗教界がとった過去への謝罪とは対称的である。その意味で、ハンセン病市民学会に教育部会が発足したことの意義は大きく、私たち教育部会の果たすべき役割と責任は大きい。今後の課題等-質疑・応答などから-
会場から、「教育部会の取り組みや働きかけが、一部の人たち、一部の学校だけに偏らないよう、全国の学校に広く浸透するようしていただきたい」といった声をいただきながら、以下のような課題を整理しました。今後の活動に活かしていきたいと考えています。【1】教育実践の交流
(1)学年、学校の取り組みに関わる総合学習
(2)教科教育の中での位置づけが可能か
(3)人権教育、福祉教育のなかでの位置づけ
(4)教材研究と交流
【2】教育に関する研究・分析
(1)教育実践のための教材研究としての位置づけ
(2)教育に関わる歴史の掘り起こし、史料調査
(3)聞き取りの実施
(4)教科書分析
【3】全国の療養所のある自治体や学校との連携、取り組みの掘り起こし
【4】メーリングリストの開設
おわりに
多くの方々の賛同とご協力を得ながら教育部会はスタートしました。教育部会は、戦前・戦中・戦後・現在の教育および教育にたずさわった者が、ハンセン病の歴史の中で果たした役割(とりわけその加害者性)を検証します。また、その反省の上にたって、現在の教育の場で主体的にハンセン病の教訓を生かした実践を行い、その推進につとめます。今後とも、ご支援・ご協力・ご指導をよろしくお願いいたします。