並里まさ子 おうえんポリクリニック便り 
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 しばらくご無沙汰していました。今年は冬の寒さが厳しかったので、一気に訪れた春の到来を喜んでいます。今クリニックの庭は、桜と紅白の木瓜が満開で、その根元を色とりどりの菫が被い、春爛漫の賑わいです。手入れ不足で出てきたたくさんの雑草も、一緒に春を謳歌しています。
 昨年11月、私たちは母を亡くしました。7月の創立2周年のパーティーで、皆さんに可愛がっていただいた時の写真が、私たちの宝になっています。どこへ行くにも、一緒にこの写真を連れていきます。
 母の訃報を知って全生園内のある方からお悔やみを戴き、10数年前の「里帰り」を思い出しました。確か私が全生園に赴任した翌年の秋に、郷里の三重県からの申し出を受けて実現したものです。数人の在園者が参加されましたが、さて郷里のどこを訪問しようかという段で、お決まりの伊勢神宮や湯の山温泉の他には、どなたも実家の訪問や親類縁者との面会は成立しませんでした。そこで、その代わりにというわけで、私の実家を訪問していただくことになりました。当時私の両親は健在で、皆さんと年齢もさほど違わず、昔話の話題にも困らないのではと考えたのです。当時は予防法の廃止前で、ハンセン病に関する啓発活動などに一般市民が触れることはほとんどない時代でした。母に電話で、訪問の日だけを伝え、この日に全生園からお客さんが行くからよろしく、と連絡しただけです。ただ一言、「この病気は、昔いわれていたようなものとは全然違うこと、治療法も確立していて、決して怖い病気ではないこと、そして私は、毎日この人たちと一緒にいること」、を告げました。少しは質問などされるかと身構えたのですが、母はいつも通り静かに了解して電話を切りました。さて当日、早朝に東京を出て、お昼ごろに桑名市の実家に着きました。玄関を入ると、懐かしいいい匂いがして、両親と応援に来た姉夫婦が、我々一同を迎えてくれました。早速お昼ごはんとなり、大きな御ひつに入ったマツタケご飯を、全員でお代りしました。一息ついたところで、次はお抹茶です。まずお菓子を取っていただき、母と姉が、次々にお薄をたてていきます。お抹茶の茶碗は大きいので、手の不自由な方でも比較的持ちやすいようでしたが、そこにはちょっとした感動があったようです。ご存知のようにお点前を戴く時、お茶碗はごしごし洗ったりは致しません。作法通りに漱いで、次の方に回します。まずお客様、続いて施主の順に、皆で順に戴きました。ごく普通のことですが、当時のお客様たちは、この一件を後々まで記憶され、よく話題にされておりました。実は、これに似た思い出があります。私が園内のあるお宅に伺った時、奥の棚からお茶椀を出して、これは来客用だからと説明したうえで、これにお茶を注いでくださいました。私は瞬間きょとんとしましたが、すぐに判りました。ハンセン病についてよく理解しておられるように見えるここのご主人も、こんなことに気を使うのかと寂しくなりました。

 両親は同年代の昔馴染みに会ったような懐かしさで、桑名の昔話に花が咲きましたが、在園者の方たちの記憶にある桑名は数十年も昔の姿で、まるで浦島太郎です。今更ながら、隔離の現実を実感したものです。
 この後母は、「全生園のあの人たちは元気?」と、よく思い出していました。翌々年でしたか、家に来てくださった人達にもう一度会いたいと、一度全生園を訪問したこともありました。こんなことを憶えていて下さる人が、母の死を悼んでくださったのでしょう。
 私の両親に、ハンセン病に関する特別な知識があったとは思えません。かつての隔離政策の宣伝に、間接的にでも触れていたはずですが、私は両親からの質問攻めに合うことは一切ありませんでした。娘が毎日顔を合わせている人たちに、自分たちも同様に接するということに、何の不安も感じなかった、とも考えられます。しかし先日、私の知らなかった発見がありました。母の四十九日の法要を終え、分骨の一部を姉夫婦がインドのガンジス川に流しに行った時のことです。以前から知り合いの、現地で活動する日本の宗教家の手を経て、父が現地に残した絵を入手しました。そのコピーを姉たちが私に送ってくれました。まぎれもなく父の筆跡です。白衣の医師と看護師が、ベッドに並ぶたくさんの患者を回診しているような光景をバックに、着物を着た女性が挨拶している図です。「昭和46年2月8日、アグラタジキール、日本の納経使節団の一員として、仏跡巡拝の次第、感銘のあまり記録するもの也」として、「一生ヲ救ライニ捧ゲ給フ老博士夫妻ノ尊イ姿ニ感激、浄財ヲ納メテ記念写真ヲトル、」と読めます。こんな所にも父の残したものが出てきて、嬉しく懐かしく、彼らが経験したであろうことが目に見えるようです。
 私の家族は、しばしば仏跡を訪ねる旅をしておりましたが、そのうちの1、2度は、母も父についてインドへ行ったはずです。その時の経験が、全生園の方々との楽しいひと時に、何らかのつながりがあったのかもしれません。

 母は要介護4の体で、ぎりぎりまで生きて亡くなりました。たくさんの人に可愛がっていただきました。私たちは、人並に老人介護の大変さを経験して、愛する家族の終末を見届けることができました。さて私たちはどのような最後を迎えるのか、その日が来るまでどのように生きていくのでしょうか。どうもこれは、一人で考えるより大勢で考えるほうが楽しい課題だと気付きました。先日埼玉県庁より、クリニックを母体とするNPO設立の許可が下りました。老人介護、成人病対策、国内外のハンセン病関連活動を主な柱としていますが、肉付けはこれからです。多くの方々と一緒に、私たちの老後のあり方を探っていきたいと思います。どなたでも、ご参加ください。
2008.3/20
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