
今年6月、所沢の郊外に診療所を開設した。その2ヵ月前までの公務員生活からは、180度の方向転換であった。見知らぬ土地で無謀な開業と、親しい友人達は忠告してくれたが、これまでの生き方に矛盾しない方向は、これしかないと考えての決断であった。地域住民の方々から、暖かく受け入れていただいていることが何よりもありがたく、この地を拠点としたことの好運に感謝せずにはいられない。
1992年1月、東京のハンセン病療養所に赴任した。それまで順天堂の皮膚科学教室に所属する皮膚科医であったが、1990年の夏ハンセン病の免疫学の講義(和泉眞蔵先生)を受ける機会に恵まれ、その医学的魅力に圧倒された。それまで漠然と持っていた暗いイメージが吹き飛んで、ハンセン病医学の斬新な展開の面白さが忘れられず、1年半後にはその現場に赴任することになった。ところが、「らい予防法」の何たるかも知らずただこの疾患を学びたいだけで飛び込んだところは、外からは全く見えない世界であった。
現場に来てまもなく、この組織の中にハンセン病医学の専門家はいないことに気づいた。内科、外科、眼科、耳鼻科など、他科の医師はそれぞれの任務についている。しかしハンセン病の化学療法を担当するはずの基本治療科(皮膚科)には二人の医師がいたが、具体的な治療方針はなく、惰性的に薬を配薬するのみであった。園内には、医療にかかわったことのある者なら、一目で尋常でない様子を感じ取るはずの患者さんが数人いた。
ある日の午後、暗い廊下で一人の女性患者Yさんに声をかけられた。彼女は、「尋常でない数人」の中の一人である。「先生、私は治るのでしょうか?」思わず絶句した私は、狼狽を取り繕いつつ、「これまでの経過を調べてみましょう」というのが精一杯であった。
その日の夜、カルテ庫に篭った。過去10年間のカルテには、看護記録の他には皮膚科の医師が記載したものはほとんどなかったが、時系列に並べられた検査伝票を見て、背筋が凍りつくような恐怖を感じた。約10年間、彼女の体内で菌は増えつづけていた。そしてこの時点でも、有効な治療を受けていない。どのような条件下であるにせよ、ヒトに寄生した菌が10年間増えつづけることは、医療の恩恵を受けることのできない条件下でしか起こりえない。
Yさんは、10年前まで社会復帰して東京近辺に住んでいたが、以前の顔かたちが全く無くなるまでの障害を得て、病棟生活を続けている。結局彼女は、その後私が療養所で担当した最初の患者さんとなるのであるが、それより前のある日、同じような症状を示していた若い男性が、自ら命を絶った。確か31歳であったと思う。彼はいつも充血した目で、眼痛を訴えていた。あと数カ月待っていてくれたらと、やりきれない思いであった。
療養所の在園者にとって、園内は世界の総てとも言える。新たな医師が赴任しても古参の医師やその取り巻きへの気遣いが常にあり、私の診療日には、比較的園内の空気に支配されない退所者(療養所を出て社会生活をしている人)の受診が多かった。これらの中にも世界に通用する治療を受けている人は一人もおらず、Yさんは氷山の一角であった。一からの治療のやり直しは相当な苦労を伴うものである。患者さんたちとともに、病気と格闘する毎日であった。また診療を通じて、社会での苦労、悩みを直に
知ることになった。彼らは「らい予防法」の現存する時代に、勇気を振るって社会生活の道を選んだ人々である。
ハンセン病の病原菌であるらい菌は毒素
を持たず、この菌に対して特異的な免疫反応を示すヒトだけが発病する、いわば免疫病とも言える疾患で、厳しい隔離が無意味であることは、かなり古くから知られて
いた。1950年代の国際組織は、「不当に隔離すべきでない」ことを繰り返し強調している。本来他の疾患と同様に、一般の医療機関で対応するべき病気であった。しかし日本では、「恐ろしい伝染病」であるとの間違った情報を広め、終生療養所に入ることを原則とし、子供を持つことまでも禁じてきた。
およそ90年に及ぶ隔離政策の下で、患者とともに医療も療養所内に隔離されてきた結果、ほとんどの一般医療機関では、ハンセン病の診断・治療ができない。社会の中で、ハンセン病は存在権を与えられていないことを身をもって知っている退所者たちは、既往歴を隠すのが習慣となっている。
再発の恐れと既往歴を知られることの恐れが、彼らを療養所受診に向かわせる。もし再発しても、現在の治療方針に基づいた早期治療を行えば、短期間に障害を残さず治療できる時代である。しかしたとえ療養所を受診しても、適切な治療どころか悪化の一途をたどる結果になりうることは、Yさんの例が示すとおりである。国内13の国立ハンセン病療養所の中の半数には、責任を持ってハンセン病の診断・治療ができる医師がいない。
2001年楽泉園へ転勤した後、Yさんが国を相手取って全生園での間違った医療を提訴した(全生園医療過誤訴訟)。社会生活を営む彼女が告訴に至るには、どれほどの勇気を必要としたことであろうか。しかし最終的に彼女を動かしたものは、自分と同じような犠牲を払ってきた多くの病友たちであったという。社会にひっそりと暮らす人々にとって、裁判などできようはずも無く、これは最初で最後のハンセン病に関わる医療過誤訴訟となるだろう。遅きに過ぎたとはいえ、Yさんを担当した私に、証人としての発言を期待されるのは当然のことである。即座に快諾したが、同時に証言を済ませた後の辞職を決意していた。
一方楽泉園では、職員一同の協力を得て、在園者全員の再発早期発見を行った。在職中に、再発または再発予備群を選出して早期治療を行った結果、その後の再発は激減した。これをもって、楽泉園の在園者の方々に園を去ることの許しを請うことにした。
しかし実はもうひとつ、辞職の決心を促した事件がある。厚労省にも委託研究の制度があり、1996年以降ハンセン病に取り組む我々にも、海外協力への道が開かれた。当初より、私はモロッコ王国とミヤンマーでの調査を続け、後者については、JICAのODAプロジェクトにつなげることができた。この委託研究が2004年の公募で再度提示され、我々は世界のハンセン病研究者の中でもトップを走る研究者とともに、WHOの注目するハンセン病対策に直接関与する課題を掲げて応募した。世界のハンセン病対策に、日本が大きく貢献できる分野である。
万全の自信を持っていたが、採択されなかった。呆気にとられるほど驚いたが、選考委員のメンバーに、ハンセン病医学の研究テーマを評価できる人物を揃えられるほど、日本のハンセン界は充実していないことを考えれば当然のことかもしれない。ちなみに採択された方の主たる人物は、前記の全生園裁判で国の証人として立ち、「Yさんの治療は間違っていなかった」と証言した、ハンセン病研究センターの医師である。長く続いた隔離政策は、患者とその医療、そしてハンセン病医学をも別の世界に隔離して、気侭にもて遊べる空間を作ってしまったようである。ここに至って、ハンセン病に関わる国の組織を離れることに、何のためらいも感じなくなった。今後は、自分のもつささやかなNGOを育てつつ、これまでに築いた仲間たちとの輪を広げていくことにした。
近年日本での新たなハンセン病患者は数人以下で、かつ若年者の発症はない。また数人の外国人発症者が見られるが、いずれも現在の多剤併用治療で治癒していく。残された課題は、数千人の元患者と、世間にある目に見えない壁であろう。若者たちを見ていると、ハンセン病への特別な思いは全く無いように思われる。しかし退所者たちは、壁を感じている。近年黒川温泉事件が起きたことも記憶に新しい。
また全生園医療過誤裁判は、今年1月東京地裁で原告の圧倒的な勝訴判決を得たにも関わらず、国はその威信をかけて控訴した。ここでは上記のハンセン病研究センターの医師に加えて、ハンセン病学会の重鎮とされる古参の医師と療養所所長連盟の代表者が、それぞれ国側に立った意見書を提出した。いずれも裁判の本題とはおよそ的外れの意見書で、かつこれらに向けての我々の反論に対して、一言の釈明も出せずに今年8月結審を迎えた。
すなわち、東京地裁での勝訴判決以外に新たな結論は出なかったことになるが、国の態度は強硬で今後も成り行きが懸念される。ここで注目すべきは、国のハンセン病界の重鎮達と、不正な手段にせよハンセン病医学にとっては重要なポストを手に入れたハンセン病研究センターの医師が、そろって国の援護に立っている現実である。彼らには、病める人々への視線は感じられない。
日本のハンセン病界は、その中枢部で今も混迷が続いている。それに比べて、私たちのささやかな診療所を受け入れて下さっている所沢地域住民の方々こそが、いかなる啓発活動にも勝る、ノーマライゼーションの実行者であると思われる。
社会には、他にも生きる場所を求めて孤立している、社会的弱者と呼ばれる人々がいる。我々が数年来交流を続けている、視覚障害者の組織や薬物中毒からの回復を目指す組織も、社会生活への道を模索する人々で構成されている。地域住民の方々の暖かい包容力に力づけられて、これらの人々へも何らかの支援ができる組織に成長させたい。