長島愛生園で資料収集 沖縄愛楽園証言集編集事務局

 
  「沖縄県ハンセン病証言集」沖縄愛楽園編集事務局は、05年9月に資料収集のため長島愛生園を訪問しました。主な目的は、(1)戦前の「日本MTL」や療養所機関誌(「愛生」、「山櫻」等)から沖縄関係記事の未収集分をチェックする、(2)「沖縄MTL報告書」の現物を確認する、(3)新良田教室の沖縄出身学生について資料収集する、以上の3つです。
 愛生園は遠い、という先入観があり、訪問計画は何度か延期されたのですが、伊丹空港から高速自動車道を疾走すると、あっという間に長島に到着しました。運転者は、「人間回復の橋」を渡った先にある案内所のことを有料道路(と思い込んでいた)ブルーラインの料金所であると勘違いしたほどです。しかし、そこから愛生園までは少し距離があり、島が広く、ここが療養所の島として選定されたことを実感しました。園に到着後、中尾伸治自治会長に案内していただいた歴史館でも、日本のハンセン病隔離政策の大きな歴史を見た気がして、井の中の蛙大海を知らず、と思わず口をついて出てきました。 また夕食後、宿泊所で映画「小島の春」を鑑賞したときには、私たちにとってまったく歴史上の人物であった小川正子が眼前に立ち現れてくるようでした。瀬戸内海の波の静かさと対照的に長島の存在感は絶大でした。
 2日目から愛生誌編集部で予定の作業を進めました。新良田教室の関係資料は神谷書庫に保存されており、私たちはまず卒業文集に目を通しました。岡山の孤島で暮らす沖縄出身学生の社会に対する真剣な想いと、またそれとは裏腹に人生を諦め投げやりになっている様子も垣間見えます。
 さらに私たちは戦前沖縄に関する貴重な資料が保存されていることを教えられました。「宮川量資料」として分類された数冊のファイルです。彼は愛生園の事務分館の主任を勤めて、昭和13年に国頭愛楽園が設置されるとその事務長として赴任しました。彼の沖縄赴任のきっかけは、青木恵哉との出会いにありました。宮川は昭和7年12月に沖縄を訪れ、青木らの案内で沖縄の癩事情を視察し、そして帰任後、日本MTLに沖縄救癩を働きかけます。「宮川量資料」には、青木がこの時期に彼に宛てた十数通の書簡が保存されていました。それは戦前沖縄のハンセン病隔離政策を解明するために、資料散逸がもっとも惜しまれている時期に関する第一級の史料です。
 また、「長島ヨリ沖縄ニ」と標記された宮川自身のメモには、沖縄赴任の直前に現地視察を行った彼に対して、青木が「患者申出」として、「(1)男女舎ノ間隔ヲ広クシテく欲シイ」、「(2)夫婦舎ヲナクスルコト」、「(3)畳敷ニシテホシイ」、「(4)味噌ニ麦ヲ入レナイデ欲シイ」と要望を出したことが書きとめられています。このうち(1)と(2)は、青木が熊本の回春病院を範にとり、断種の行われない国立療養所を求めていたことを示すものでしょう。
 沖縄愛楽園編集事務局は、『沖縄県ハンセン病証言集資料編(仮題)』(2006年3月刊行予定)にこれらを収録する方向で作業を進めています。今回の資料収集にあたり中尾自治会長をはじめ歴史館学芸員の田村朋久さん、愛生誌編集部の駒林明代さんに大変お世話になりました。限られた時間の中での作業でしたが、貴重な資料に触れる事ができました。本当にありがとうございました。

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沖縄愛楽園証言集編集事務局  宜寿次政江 森川恭剛
 
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