虐待と弾圧によって血塗られたハンセン病歴史は、2001年5月11日の熊本判決により、すべてが解決されたかに見える。
だが、そうではなく、いくつもの問題が残された。90年もの間、人権を剥奪し、命まで奪ったのはなんだったのかの真相究明であり、無医村化した医療問題はどうするのか、そして夕食時間の問題が残されている。
ハンセン病療養所は、従前から職員の退庁時間に合わせた、夕食時間は4時と決められている。かつて戦前から戦後しばらくは、夕食3時30分であった。
それらが患者自治会の誕生が成り、要求するいささかの発言によって、4時に変更された。このような夕食時間帯での運営がなされている施設が、他にあるであろうか。ハンセン病患者たちは、国立療養所、病院はどこでも夕食時間は4時と、思い込んでいた。
ところが、そうでない事を知ったのは1981年だった。全生園に隣接する清瀬市の国立療養所東京病院で行われた、全医労、日患同盟、全患協(現全療協)の三者協議会の場で、東京病院代表からの発言だった。
「現在の夕食時間は5時だが、せめて夏期間だけでも6時にしてもらいたい。今の時間帯では食欲減退は避けられず、回復に大きな影響を受け、病む者は苦しんでいる。折角の三者協議会の場が設けられたのであるから、この問題を議題として採択し、改革して欲しい」
私は唖然とした。ハンセン病療養所は夕食4時に対し、他の国立施設は、なんと5時だったのだ。その上で更に6時を求めている。ハンセン病者たちは夕食時間が4時を当たり前としてきた。止むことのない差別。この公然たる差別体制がなんの不思議とも思わず今日に至ったのか。私は屈辱感に震えた。(その後、国公立の夕食時間は6時に変更された)
らい予防法は、患者自らの啓発活動によって死文化したと思っていたが、それは大変な誤りだと気づいた。この公然たる差別の根源はらい予防法にある。らい予防法は死文化したと思い込んだのは、組織活動に携わる者の単純な自信と、自負心である。
社会的交流は何の抵抗もなく進化し、厚生省の陳情に対する扱いも様変わりした。それは錯覚なのだが、組織活動の成果と思い込む自己満足に過ぎなかった。今日、熊本判決を踏まえての、三者協議会(全原協、弁護団、全療協)と、厚生労働省との間で全面解決に向けた協議会が進められているが、進展したものもあり、反面で難関な壁に突き当る局面を迎えている。そんな中で、議題に載らない夕食4時の問題は等閑視されたままだ。この改善に向けた闘いを、全原協の意趣統一のもと訴えてきた。その訴えは孤立の悲運にさらされたままだ。この差別を断ち切るには、峻厳な道程を克服しなければならないが、命果つる日まで、その日を迎えることが出来るだろうか。
(2005年5月)